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連載・特集

緑地帯 紙谷加寿子 野薔薇のごとく①

 そもそも父が「加寿子」と名付けた時から私の人生は始まった。「美しく才能豊かで、幸せな人生を送ってほしい」とピアニスト安川加寿子先生の名を頂いたのだ。3歳からピアノの手ほどきを受け、小学1年の時に学芸会で猿蟹(さるかに)合戦の猿を演じたことが私の原点。今は亡き父が描いた猿のお面をポニーテールの頭にかぶった写真が残っている。初のミュージカル出演だ。父は音楽の道に進むことは「厳しい世界だから」と反対。東京で進学校として知られる女子学院に入学したのも、ピアニストになるのをやめるためだった。

 しかし、学内のコンクールでシューベルトの歌曲を歌って優勝し、音楽の先生に声楽の道を勧められた。その先生は広島の現エリザベト音楽大を卒業後、東京芸術大で学んだ人だった。私が後にエリザベト音楽大の講師となり、市民オペラ団体「野薔薇座(のばらざ)」を結成することとなる広島とのご縁は、この時に始まっていたのかもしれない。

 父を説得し、東京芸術大の名誉教授、浅野千鶴子先生の門をたたいた。同大に入学後は戸田敏子先生に師事。恋もせずに「歌に生き歌に生き」た。トスカの「歌に生き恋に生き」とは違い―。

 大学院の時、声楽コンクールの準備中に祈った。「どうぞ良い声が出ますように。生涯、独身でもいいです」。見事、優勝して奨学金を得て、イタリア・ローマのサンタ・チェチーリア音楽院に留学できた。祈りは届き、今も独身だ。 (かみや・かずこ 声楽家、野薔薇座代表=広島市)

(2023年2月14日朝刊掲載)

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