×

社説・コラム

被爆地の新聞社と「ヒロシマの空白」

死を「仕方なかった」にしない覚悟

【この記事は、Journalism 2021年8月号(朝日新聞出版)に掲載された】

■金崎由美 中国新聞編集局報道センターヒロシマ平和メディアセンター長

 広島の地元紙、中国新聞の本社は本川を挟んだ平和記念公園の対岸にある。職場の窓越しに広島平和記念資料館(原爆資料館)前の噴水、緑の木立と原爆ドームの円屋根が見える。本川に架かる西平和大橋の欄干は彫刻家イサム・ノグチの設計、船の竜骨をイメージし原爆犠牲者の旅立ちを意味しているという。戦後復興のシンボルである街路樹のキョウチクトウが、花を咲かせ始めた。

 公園を歩くと、76回目の原爆の日が間近なのに往来はわずかである。新型コロナウイルス禍がなければ、今頃は国内外から原爆資料館に人波が押し寄せていたはずだ。2020年度は感染拡大を受けて入館者数は大幅に減少したが、2019年度は過去最高の175万人超を記録した。

 その館内で誰もが最初に目にするのが、コンピューターグラフィックス(CG)の映像として投影される「死者約14万人 1945年の終わりまで」という言葉だ。8月6日午前8時15分に米軍が広島上空で投下した原爆は、爆心地から半径約2キロにわたり市街地を破壊し尽くした。被害の甚大さを、見学者は「14万」という数字を通して脳裏に焼き付ける。

 これは1976年に広島、長崎の両市が国連事務総長に提出した文書の中で、被爆前の人口推計と、被爆後の人口調査を比較するなどして算出された「14万人(誤差±1万人)」に端を発している。実数ではなく推計値。死者数という基本的な情報すらはっきりしないほど、被害の全容は解明からほど遠いのが実態だ。

「14万人±1万人」と「8万9025人」

 ヒロシマ平和メディアセンターは原爆平和報道を担当する編集局内の部署である。日々の取材に加えて、本紙掲載の原爆平和関連記事を日英両言語をはじめ中、仏、露の計5言語で掲載するウェブサイトの運営、中高生記者「中国新聞ジュニアライター」25人の活動支援など、「発信」と「次世代継承」をさまざまに行っている。被爆地の新聞社として何を報じるべきか、走りながら皆で年中考えている。

 被爆75年の節目を翌年に控えていた2019年夏、吉原圭介センター長(現編集局次長)が率直な問いを記者たちに投げかけた。「14万人±1万人という、あれだけの誤差で人間の命を語り続けていいのか」。災害の発生時には死者と行方不明者を一人ずつ数え、犠牲者名簿が作られる。私たちは、名前や顔を持つ生前の姿を想像し、死者の無念と遺族の悲しみを思う。万単位の誤差を含む数字で「広島14万人、長崎7万人」と原爆犠牲者について語らざるを得ないことは、よくよく考えれば尋常でない。

 とはいえ、決して「14万人±1万人」がそのまま放置されてきたのではなかった。広島大助教授として国連提出の要請書につながる調査を主導した故湯崎稔氏は「より正確なデータが得られれば、この数は改めなければならない」(1976年11月13日付中国新聞)と念を押していた。その後も研究者、市民、行政、そして記者たちが努力を重ねてなお残っている「空白」なのだ。

 私自身、被爆65、70年の重点報道に関わったが、今回はさすがに「どこまで掘り下げられるのか」と不安を覚えた。それでも諦めず、推計値や大きな数字では見えない人間の苦しみと向き合うべきだろう。「14万人±1万人」に代表されるあらゆる未解明の原爆被害を「空白」と捉え、平和メディアセンターを拠点に「ヒロシマの空白 被爆75年」の取材班を組んだ。緻密な取材で原爆平和報道を牽引する水川恭輔記者、山本祐司記者と山下美波記者を専従担当に、河野揚記者、小林可奈記者が兼任で加わり模索を始めた。

記録からこぼれ落ちたままの「名前」

 埋もれた死者を追うにあたり、人間の尊厳を象徴するものとしていくつかの柱を立てた。一つは「名前」である。  広島市は最近1年間に死亡が確認された被爆者の名前を原爆死没者名簿に書き加え、毎年8月6日の平和記念式典の中で「過ちは繰返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑の石室に収めている。

 名簿登載につながる主な情報源に、「原爆被爆者被災調査」として1979年に始まり、現在も続く市の「原爆被爆者動態調査」がある。事業所や学校単位で作成された古い死没者名簿から転記したり、死亡により被爆者健康手帳が返納された被爆者を加えたりして名前を積み上げている。それによると、「1945年末までの死亡者の確認数」は2019年3月末時点で8万9025人だと分かった。「14万±1万人」とのはざまに相当数の「埋もれた死者」がいることは確実だ。

 取材班は、遺族や生存被爆者を訪ね回り、体験手記を読みながら、「8万9025人」からこぼれ落ちた犠牲者を掘り起こしていった。たった一発で人命も行政資料も焼き尽くした核兵器の破壊力や、日本の無謀な戦争の末の市民の悲惨、広島の地域性など、さまざまな事情が浮かび上がってきた。

 連載で最初に取り上げたのは、家族で富山から赴任していた軍人の青木信芳さんだ。2人の子どもと妻、ちょうど訪ねてきていた妻の妹が死亡。遺族の手元には、信芳さんが45年8月6日の欄に「負傷ス 一家全滅」と走り書きした手帳が現在も大切に保管されている。その信芳さんも被爆から24日後に亡くなった。

 一家全滅の場合、家族の存在を語り継ぐ人がいなければ、存在が埋もれがちになる。特に就学前の子どもや主婦、そして高齢者は、事業所や学校の死没者名簿などに載りにくい。ただ、信芳さんの死だけ動態調査に盛り込まれているらしいことが分かった。日清、日露戦争に始まって太平洋戦争を軍の一大輸送拠点として支えた「軍都」広島には、県外出身の軍人と家族が少なくなかった。信芳さんの死は、軍歴あるいは同僚の証言によって捕捉されていた可能性がある。

 妻と2歳の長女、原爆炸裂の数時間前に産声を上げた次女を失った男性の体験も取り上げた。火の手にのまれた長女の最期を自らこう書き残している。「手を血まみれにしてやりましたが駄目でした」「おとうちゃん熱いよー 火がちたよー ててが焼けるよー……最後の絶叫を残して声はしなくなった」。まだ名付けられていなかった次女は、動態調査にも原爆死没者名簿にも載っていないと思われる。男性が戦後に再婚してから生まれた女性は、父が生涯背負った悲痛と、顔を知らない名もなき義姉への自らの思いと向き合い続けていた。

 水川記者がこれらの取材に一手に取り組んだのは、4カ月間取得した育児休業が明けて間もない時期。父になり、「今、自分たちの頭上で原爆が投下されたら……」と思いを巡らせたことが、困難な取材の着想と、やり抜くための原動力になったという。遺族にとって75年前は遠い過去ではなく、心の中に「空白」を抱えていた。連載を開始すると、読者から「近所にいたあの家族も全滅だったかもしれん」「記事を読んで市に問い合わせると、私の父も原爆死没者名簿から漏れていたと分かった」などの情報提供が相次いだ。原爆を生き延びた者、遺族、読者、取材者―。「ヒロシマの空白 被爆75年」は、人それぞれがあの日を「わがこと」と受け止める中で紡がれている。

「遺骨」と遺族をつなぐ

 原爆被害を象徴するもう一つの「空白」が「遺骨」である。

 椀を伏せたような形から「土まんじゅう」と呼ばれる平和記念公園の原爆供養塔には、原爆が投下された直後から学校のグラウンドや河原など至る場所で火葬された犠牲者の遺骨が持ち込まれ、静かに眠っている。「約7万体」とされるが、やはり確たる根拠はない。そのうち、2019年時点で814人の骨つぼには、名前など身元割り出しにつながる何らかの手掛かりが記されていた。広島市は毎夏、納骨名簿をポスターにして公開しているものの、2010年度以降の返還は2例だけだった。一方で、肉親の遺骨を捜し続ける遺族がいる。ならば、と記者の手で遺骨と遺族をつなぐことを試みた。

 第三者がアクセス可能な資料として、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の公開情報がある。2002年に国の施設として開館し、原爆資料館を運営する市の外郭団体、広島平和文化センターが運営を受託している。遺族の申請を受け付け、登録・公開している死没者2万3千人余りの名前と、ポスターの名簿を注意深く照合する中で、山本記者はある名前に注目した。納骨名簿に「鍛治山はる(皆実町三丁目)」さんが、追悼平和祈念館には同じ住所の「梶山ハル」さんの名がある。

 ハルさんの孫で、83歳の梶山武人さんを捜し当てた。取材について説明すると「間違いないだろう。引き取って墓に入れてあげたい」と嗚咽を漏らした。家族で旧満州(中国東北部)へ渡った1945年春、ハルさんがおむすびを持たせて広島駅で見送ってくれたことが忘れられないという。原爆供養塔を管理する市は、遺骨返還の手続きに前向きな姿勢だ。

 連載では、同じく原爆供養塔の納骨名簿にある「麓仁和子」さんの遺族にも接触した。東京都八王子市の「被爆体験を語り継ぐ会」が発行した体験手記集に、その名があった。「空白」を埋める鍵は、記者が独自取材で入手した非公開情報だけではない。原爆供養塔と追悼平和祈念館はともに平和記念公園内にあり、直線距離でわずか200メートルほど。点在する公開情報や資料を保全し、縦横につなげば浮かび上がってくる事実がいくつもある。

 在韓被爆者の取材でも同様だった。「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川の韓国原爆被害者協会は、1970年代の被爆者の聞き取り記録など、膨大な資料を廃棄せずに保管している。小林記者は現地取材と広島市などへの取材結果とを突き合わせ、11人が動態調査の「8万9025人」から漏れている可能性があることを突き止めた。氷山の一角のはずだ。

 朝鮮半島を植民地支配していた日本での被爆死。あるいは生きて帰還後の朝鮮戦争と貧困を耐えた末の死―。コロナ禍で2度目の渡航取材が不可能になったため、オンラインを活用した遺族や生存被爆者へ聞き取りを試みたが、これが大変だった。ネット環境の有無以前に、貧しさの中で読み書きを学べなかった人が少なくないのだ。現地の被爆者団体と、在韓被爆者支援を数十年来続ける広島の市民たちの力添えなしに、取材は実現しなかったろう。逆に言えば、この人たちがいなかったら、どれだけの在韓被爆者の被害実態が「空白」として埋もれてしまっていたことだろう。

 資料や記録、証言を残して次世代に渡すには、官民挙げた「オール広島」での取り組みが必要だ。いや、地域ごとでは限界がある。日本全国に目を向ければ、被爆者が個人で書きためたメモ、各都道府県が保管する被爆者健康手帳の申請書類などのさまざまな資料が廃棄や散逸の瀬戸際にあることが分かってきた。

 では、公文書の体系的な保存や活用を巡る国の姿勢はどうか。いわゆる森友問題をはじめとする昨今の政治課題をみれば、暗澹たる気持ちになることも確かである。

戦争と向き合おうとしない政府

 「空白」を突き詰めようとするほど、「政府」「国」という壁が見えてきた。

 「遺骨」の取材の中で、私たちは一つの疑問を確かめることにした。太平洋戦争の激戦地やシベリアでの戦没者遺骨収集のように、日本国内の民間人の犠牲者についても、身元不明の遺骨のDNA鑑定などに乗り出す気はないのか。日々の取材で、「焼け跡で家族を捜しながら、誰のものとも分からない遺骨を受け取って帰った。墓には入れたが……」などの証言に接することがままある。

 河野記者が厚生労働省の社会・援護局事業推進室に問うと「原爆被害も、一般戦災。遺骨収集をやるなら地方自治体ではないか」。その根拠法は「行旅病人および行旅(こうりょ)死亡人取扱法じゃないかと」。取材報告を受け、思わずのけ反った。返答が突拍子もなかったからではない。国に戦争遂行の責任を問うなかれ、市民が被った戦争被害は皆で我慢すべきだ、という「戦争受忍論」をこう説明するか、と。

 そもそも政府は、原爆犠牲者数の全容調査などに率先して取り組もうとしなかった。敗戦後、原爆を使用した米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)に占領統治され、プレスコード(報道統制)下に置かれた事情はあった。しかし1952年に独立を回復して以降も態度は変わらない。広島、長崎両市の度重なる要望の末、全国の被爆者健康手帳所持者(当時36万人)を対象に調査したのは被爆から40年後だった。家族や知人に死没者がいるかどうか、生きている被爆者に問う内容。原爆で全滅した一家の遺族であっても、被爆者でなければ調査票は届かなかった。

 国は当時、これをあくまで広島市などによる調査の「補完」だと説明した。国が主体的に被害を明らかにするほど戦争責任の追及と被害補償の要求が高まり、各地の空襲被害者などに波及しかねないと恐れたのか。もし政府の「初動」が違っていれば、「空白」はここまで大きくならなかったはずだ。

 政府は原爆被害を「特殊の被害」と位置づけることで、空襲などの一般戦災者との線引きを図った。被爆者には健康管理手当などが支給されているものの、位置付けは本人が受給対象の「社会保障」「福祉」。学童疎開で農村部に送られて家族と離ればなれにされた末、市内に残る家族を失った原爆孤児は、国の援護対象から排除された。「黒い雨」を浴びた住民らは、一部を除いて援護の枠外に置かれてきた。放射線被曝による健康被害も救済範囲は限定されてきた、と国への不信感を募らせる被爆者は数多い。あらゆる当事者の声を、取材班は丹念に聞いた。

 原爆被害者とは誰か。原爆被害とは何か――。爆心地からの直線距離だけで被害を測ることはできない。あの瞬間に失われた地域の営み、一変した日々の暮らし、心の傷、かけがえのない人の喪失、といった多様な被害が横たわる。1946年以降も数多くの原爆被害者がやけどや放射線障害に苦しみながら生き、命を奪われていった。特に旧原爆医療法が制定され被爆者健康手帳の制度が始まった1957年より前の死者は、一部が行政に把握されず「空白」になっていることも忘れてはならない。

自ら資料保全、「街並み再現」

 原爆に焼かれた地域の営みや、一変した日々の暮らしは取り戻せない。取材班として取り組めることはあるだろうか。注目したのは「写真」である。

 原爆被害を記録する写真については、米軍や日本のカメラマンが撮影しており、原爆資料館の学芸員が米国でさらに収集をするなどしてアーカイブ化が進んでいる。だが1945年8月6日以前の街角や往来を捉えた写真となると、積極的な収集はしていない。個人宅に散在する写真の提供を読者に呼びかけてデータ化し、公的機関の所蔵資料と合わせれば貴重なアーカイブを構築できると考えた。

 そこで、「名前」「遺骨」などを柱とする本編連載に加えて、「ヒロシマの空白 街並み再現」を紙面で展開。並行して、グーグルマップ上に写真を配置するウェブサイトを開設した。

https://hiroshima75.web.app/

 米軍の都市空襲が激しさを増すと、市民は広島への波及に備えて家財道具を郊外の親戚宅などに疎開させた。その中に家族写真があった。持ち主が原爆の犠牲となり、焼失を免れたアルバムが遺品となった例は少なくない。

 写真収集には桑島美帆、新山京子の両記者も加わった。それぞれ、祖父母の世代に死没者がいる被爆2世、3世。たった一枚の写真提供に遺族が託した思いを丹念に聞き取る取材は、時に自らの家族史との間を心の中で行き来する作業である。入社2、3年目で本編取材と写真収集の両方に深く関わった山下記者は、靴を履きつぶすように本通り商店街を訪ね歩き、かつての街並みを写真で「再現」していった。市公文書館や原爆資料館など専門知識を蓄積する公的機関の知恵を借りて、「道路脇にスズラン灯が写っているから1942年よりも前」「この木造民家があるということは、あの辺り」などと場所を特定。スキャン作業を経て、グーグルマップ上に可能な限り正確にピンを立てる。ウェブ掲載は千枚を超えた。

 現在の平和記念公園には、民家や店舗が軒を連ねていた。本通りは当時からにぎやかな商店街。どこか懐かしさを誘うカットの数々だ。だがそれは、理不尽にも1945年8月6日に焼き尽くされてしまう、人と街である。原爆が奪ったのは市民の日常だった。同時に、その日常が軍国主義下の戦時総動員体制であった事実を、写真は無言で物語る。

 米軍が撮影した焼け跡の写真は、原爆の破壊力を「効果」「効率」として測る資料だった。それに対して被爆前の街角の写真は、原爆の破壊力が奪ったものを知る手掛かりとなる。二つを重ねることで、米軍写真の存在意義すらも、見る者一人ひとりの中で変わっていく。

終わらない努力

 原爆体験者は年々減少している。年月という壁に阻まれながらの取材は、素手で地面を掘り起こすような、地道な作業だ。手掛かりを求めて被爆者や遺族の証言に耳を傾け、膨大な数の資料を読み込んでいく。なおも諦めずに「空白」を埋めようとこだわるのは、中国新聞社が原爆被害の当事者であることにもよる。社員の約3分の1に当たる114人が死亡し、爆心地から約900メートルにあった当時の社屋は全焼。焦土から立ち上がった。

 前述の通りこの連載は、歴代の先輩記者、被爆地の研究者、被爆者と市民、そして行政による追究の膨大な積み重ねの上にある。たとえば、水川記者が苦労して記事化した2020年元日付記事は、現在は原爆資料館となったその場と周辺に住み、被爆死していた住民を特定した。戸別地図上で、「五反田」「坂井」「大草」の3世帯の「空白」を埋めた。ちょうど市が被爆遺構の展示施設として整備を進めている旧天神町北組の一角だ。記事が「ここに暮らしがあった」と見学者に実感してもらう一助になってほしい。

 3世帯の判明に至る手掛かりとなった資料の一つは、市内の臨床心理士らが2018年に刊行した被爆者の証言集。加えて、1997~2000年に西本雅実・元特別編集委員を中心に展開した本紙連載「遺影は語る」と、関連して作成した「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」の戸別地図である。爆心一帯での住民や、動員作業でそこにいた人たちの原爆死を明らかにし、1882人の遺影を遺族から提供してもらった連載だ。うち1655人は、追悼平和祈念館の開館時から保存・公開されている。2万3千人余りの情報の一角を占める。

 さらにさかのぼると、広島大などが1960年代後半から1970年代にかけて「爆心地復元調査」を実施している。平和記念公園のかつてを戸別地図に再現しようと、官民挙げて取り組んだが消息不明者はどうしても残った。この調査を率いた故志水清教授らによる報告書は、こう記す。「国家的規模の調査が早急に実施されるよう切に望む……政府当局の絶大な理解と、被爆者のみならず一般国民の十分な協力を得ることによってはじめて成功するものであることを強調しておきたい」

 一人の名前、一人の遺骨の身元を突き止めたところで、原爆被害のごく一部かもしれない。でも私たちは、誰の死をも「仕方がなかった」ことにしない決意を示したい。原爆投下は過ちであり、反省と教訓なきところに過ちは繰り返される。当事者の高齢化が進む中、その肉声を伝え、警鐘を鳴らし続けることが被爆地の報道機関の責務だと思っている。

 現在も、地球を滅亡させられるだけの核兵器1万3千発以上が存在している。2016年5月、原爆投下国の現職大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ氏は、演説で「雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」と述べた。ホワイトハウスで私との単独インタビューに応じたスピーチライターのベン・ローズ大統領副補佐官(当時)は、平和記念公園の印象として「公園の美しさ」を挙げた。原爆は天災のように空から降ってきたのではない。平和記念公園が1945年以前から緑豊かだったのでもない。

 その米国の同盟国である日本は、米国の核抑止力に頼る政策を堅持している。核兵器を全面的に違法とする核兵器禁止条約が今年1月、発効した。非人道的な悲惨を繰り返させない、という国際世論の意思と被爆者の悲願が結実した。しかし日本は、背を向けたままである。被爆地の報道機関の責務は、果たされていないと痛感する。

 「ヒロシマの空白 被爆75年」は昨年度の新聞協会賞(企画部門)を受け、今年6月には書籍として出版した。ここが区切りではない。「ヒロシマの空白 被爆76年」「ヒロシマの空白 被爆77年」……として諦めずに細々とでも取材を続け、努力をつないでいく。

年別アーカイブ