×

連載・特集

広島サミット原点の地で <6> 原爆小頭症

胎内被爆 苦難の人生に

 横浜市の中井葉子さん(71)は、兄新一さん(77)と2人で暮らす。兄はいつも穏やかだ。人に優しく、誰からも好かれる。ただ読み書きも計算もできない。胎内で原爆の強烈な放射線を浴び、生まれながらに知的、身体障害がある「原爆小頭症被爆者」だ。葉子さんは時折、考えてしまう。兄や私たち家族の人生はどんなだっただろう。原爆さえなかったら、と。

 1945年8月6日、新一さんは、母トミエさん=当時(25)=のおなかの中にいた。父武夫さん=同(31)=の転職で、大阪から広島市新市町(現中区)に引っ越したばかり。5歳と3歳の女の子もいた。一家は全員、自宅で原爆に遭った。

 爆心地からわずか700メートル。父は大やけどを負い、母の体には無数のガラス片が刺さった。後遺症も重く、2人とも髪も歯も全て抜けた。5歳の長姉は日に日に弱り、9月に避難先の姫路市で息を引き取った。

兄と生きる決意

 原爆の放射線はトミエさんの胎内も襲っていた。翌46年の元日、早産で生まれた新一さんは、すぐに右目奥に腫瘍が見つかり、眼球を摘出した。成長しても言葉をうまく話せず、小学校に通ったのは1年生の1学期だけ。頭囲は人より小さく、いじめにも遭ったようだ。外出時は必ず、父母のどちらかが付き添った。

 「両親は兄を守ろうと懸命でした」。戦後6年目に生まれた葉子さんは振り返る。自らも20代半ば、兄の存在を理由に婚約を破棄された時、どん底の中で決意を固めた。「兄を最期までみるのは私だって」。一方で、両親があの日を語ろうとしても聞くのを拒み、周りにも兄が広島にいたことを告げなかった。悲惨な過去から目を背けたかった。

 一家は戦後10年ごろ、広島から遠く離れた横浜に転居。原爆について周囲の理解も情報も乏しい環境にあった。広島市では65年、社会から放置されてきたわが子の行く末を案じた親たちが、原爆小頭症の当事者団体「きのこ会」を結成。67年に原爆が原因だと国に認めさせ、認定されれば手当も出るようになっていた。

「存在を知って」

 だが、葉子さんが制度を知るのは、さらに20年が過ぎてから。89年に認定被爆者になった時、兄は43歳になっていた。そして、両親と2番目の姉が他界し、2人きりになったきょうだいは2019年、きのこ会に巡り合う。葉子さんは、核の非人道性を訴え続ける仲間の存在に励まされ、考えを変えた。「存在を知ってもらうことこそ兄や私の使命。そう思えるようになったんです」

 会の中心だった親世代はもういない。累計25人が在籍した当事者も今は12人。高齢化が進む中、葉子さんは昨年6月、メンバーを代表し、核兵器禁止条約の第1回締約国会議に出席する政府代表たちへ「手紙」を書いた。

 「生まれ変われることがあるなら、多くは望みません。兄を、原爆のない、核兵器のない世界に生まれさせてあげたい」

 今年5月に先進7カ国首脳会議(G7サミット)で広島を訪れる首脳たちにも、同じように伝えたいと思う。手紙はこう結んでいる。「原爆に苦しむ人たち、また、その家族を出さないために、すべての人たちが安心して暮らせる世界をつくってください」(編集委員・田中美千子)

[ヒロシマの声関連]

(2023年2月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ