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連載・特集

広島サミット原点の地で <7> 外国人被爆者

全容は不明 救護に奔走

 「遠くより『助すけて、助すけて』と叫ぶ聲(こえ)がある。しかし方面が解(わか)らない。しばらく良く聞いてから、この聲が下より、二楷(かい)の家の下に下敷にされた母と二人の娘より發(はっ)せられるものだと解った。其(そ)の場で二人を掘り出して、後の一人を警防團(だん)にまかせて置きました」―。

 広島で被爆したドイツ出身のクラウス・ルーメル神父(2011年に94歳で死去)は、1945年8月6日深夜に母娘を救出した一部始終を、12日後の日記にこう書き残している。

 原爆投下時、ルーメル神父は爆心地から約4・5キロ離れた祇園町(現広島市安佐南区)の長束修練院にいた。砕け散った窓ガラスを浴びたが、重傷を免れる。医学の心得があったスペイン出身のペドロ・アルペ院長(91年に83歳で死去)の下、他の神父や修道女たちと、次々に押し寄せる負傷者の世話に追われた。

 その夜、疲れた体を奮い立たせ、広島市中心部にあった幟町教会司祭館(現中区)で重傷を負ったフーゴ・ラサール神父(90年に91歳で死去)たちの救出へ同僚神父と向かう。爆心地から約1・4キロの三篠橋東側(現中区)付近を通りかかった時、崩れた木造家屋から女性の声を聞いた。

「神父のおかげ」

 「ココデスカ、ココデスカ」と捜すルーメル神父。「娘がいます。助けて」と家屋の下から叫ぶ母親。神父たちに引っ張り出されたのが、大沢美智子さん(93)=西区=だった。当時15歳。柱に挟まれて身動きが取れず、死も覚悟した。「神父のおかげで今日まで生きさせてもらった。命の恩人です」と振り返る。

 ただ、共に生き埋めになった義兄は即死し、身重の姉は死産した後、10月に他界。母親も寝込みがちになり、56年に亡くなった。ルーメル神父は日記に「一生の間その三人の言ふ事、その時の氣持(きもち)忘れられない」とつづっている。

 米軍が投下した原爆は広島にいた人間を無差別に攻撃した。広島市内には戦前からイエズス会の活動拠点があり、ルーメル神父を含め13人のドイツ出身の神父が被爆したことが分かっている。いずれも命は助かり、不眠不休で救護に当たった。時には米兵と間違われるなど、身の危険を感じることもあったという。

 一方で、捕虜の米兵や、市内在住の白系ロシア人、朝鮮半島出身者、中国、東南アジアからの留学生たちが被爆し、犠牲になった。外国人被爆者の国籍や人数の全容は、78年たった今も把握できていない。

地球全体の問題

 被害の一端を伝えるため、原爆資料館(中区)が19年に新設した外国人被爆者コーナーには、ルーメル神父の日記の複製や、負傷者を運ぶ姿を描いた「原爆の絵」が並ぶ。大沢さんの長女、阿部優美さん(68)=西区=は英語ガイドとして外国人旅行者をこのコーナーへ案内してきた。「先進7カ国首脳会議の参加者にもぜひ見てほしい。国籍は関係なく地球全体の問題だと分かるはずだ」

 あの日、ルーメル神父が救出に向かったラサール神父は戦後、世界平和記念聖堂(中区)の建立に尽力し、83年に収録した証言ビデオで言い残している。「人類は一歩進まねばならない。どうしても戦争はいけない」(桑島美帆)

(2023年2月17日朝刊掲載)

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