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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 市民団体代表 中川幹朗さん(64)

田原幻吉と佐伯敏子

死者の無念 刻み伝える

 高校教諭として教壇に立つ傍ら、市民団体「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」代表として「記録し記憶し、伝え広める」をモットーに活動する。〈ピカより今日は○日〉。「ピカ暦(ごよみ)」を交流サイト(SNS)に毎朝上げる。原爆が人間にもたらした苦しみや怒りが時の経過とともに忘却されてしまわぬよう暦を刻んだ「師匠」の志を継ぎ、2016年から続ける。

 師匠とは、田原幻吉さん(本名・伯(つかさ)、17年84歳で死去)。原爆資料の収集・分析に心血を注いだ在野の研究者だ。1968年には、中国新聞元論説主幹の金井利博氏たちと原爆被災資料広島研究会を結成し、文献や手記などを網羅した「原爆被災資料総目録」を15年がかりで4集まで発行。「無念の死を強いられた人々の復権」を胸に、一人で「ピカ資料研究所」の看板を掲げ、原爆の不条理を告発し続けた。

 ピカ暦もそうした活動の一環だった。被爆体験の風化が言われ始めた60年代から私費でチラシにして配ったり新聞広告を出したりして忘却を戒めていたようだ。「田原さんにとってどの一秒も原爆と無関係ではなかったのだろう」

 出会いは80年代半ばだった。勉強会に誘われ、資料集作成を手伝うように。寝食を忘れ、生活すべてを懸け原爆資料に当たる田原さんに間近で触れた。自分のことは語りたがらなかったが、原点には、敗戦で朝鮮から引き揚げる際、弟を失い、傷ついた被爆者を目撃した体験があった。

 「げな」「らしい」といったあいまいな言説でヒロシマを語ることを許さない。必ず原典に当たる大切さも学んだ。「死者は何も語れず怨念だけが残るとよく聞かされた。だからこそ事実を積み上げ、誇張やうそを後世に残さないという強い意志があった」。田原さん亡き後、残された膨大な資料の整理に携わり、あらためてその執念を思う。

 ある日、「女幻吉に会わせる」と田原さん本人から紹介されたのが佐伯敏子さん(17年97歳で死去)だった。身元不明や引き取り手のない遺骨が納められた平和記念公園内の原爆供養塔に40年以上毎日通って、死者の無念の声に耳を傾け、清掃を続けた。遺骨の遺族を捜し、「ヒロシマに歳(とし)はありません」と、自らの被爆やたくさんの肉親を奪われた体験を若い人たちに語り続けた。

 仕事帰りに供養塔に立ち寄り、話を聞くようになった。勤務する高校に招き、証言もしてもらった。

 94年に「フィールドワーク」を始めたのは、佐伯さんの話を少しでも多くの人に聞いてもらいたかったからだ。爆心直下の町だった平和記念公園と一帯を歩き、供養塔で佐伯さんの証言を聞いた。98年に佐伯さんが倒れてからは、ゆかりの住民に参加してもらっている。「当時大豆をどうやって食べたかというような素朴な話題になる。暮らしの息遣いに触れることで原爆が何をもたらしたのか実感を伴って見えてくる」

 それは2人の師から学んだことでもある。「田原さんは立派な本よりビラ1枚が大切と教えてくれた。市井の人々は自身の体験からすぐに核兵器廃絶を声高に叫ぶようなことはしない。小さな声や事実を積み上げ残しておきたい」。記録となる冊子作成も続ける。

 二人が逝って5年余り、「いま広島でどれだけの人が二人を覚えているだろう」と投げかける。すごい人たちがいた―。その事実もまた、記録し記憶し、伝えていく。(森田裕美)

なかがわ・もとお
 大竹市生まれ。広島大卒業後、広島県立高校の教諭に。80年代半ばに田原幻吉氏、佐伯敏子氏と出会い、親交を深める。94年に「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」を結成し、現在も代表を務める。広島市南区在住。

原爆供養塔
 身元不明や一家全滅などで引き取り手のない遺骨が納められている。形状から「土まんじゅう」とも呼ばれる。被爆後、爆心地に近いこの付近に無数の死体が運ばれ、火葬された。46年に仮の供養塔と納骨堂・礼拝堂が、55年地下に納骨堂を備えた現在の供養塔が建立された。土が盛られた場所はかつて「原爆納骨安置所」と呼ばれており、佐伯敏子さんはこの呼称にこだわった。

(2023年2月20日朝刊掲載)

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