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連載・特集

広島サミット原点の地で <8> 原爆孤児

被爆せずとも被害者

 千葉県柏市に住む吉村友佑さん(88)は、広島市での先進7カ国首脳会議(G7サミット)開催が決まった後、広島県被団協理事長の箕牧(みまき)智之さん(80)=北広島町=に1通の手紙を送った。「私も原爆で孤児同然となった身。核廃止を頑張ってください」。原爆投下時、吉村さんは疎開先にいたが、父を含む家族5人を失い、兄と戦後を生きた。原爆、戦争の被害者として託したい思いがあった。

 吉村さんは7人きょうだいの末っ子。78年前、父と兄姉4人との6人で広島市西地方町(現中区)で暮らしていた。母を早くに病気で亡くし、残る兄2人は戦争で県外の部隊にいた。

運命変えた疎開

 市では1945年春に学童集団疎開が始まるが、神崎国民学校(現神崎小)5年の吉村さんは当初参加しなかった。「うちは、いざとなったら一緒に死のうと」。だが、教員が説得。6月末ごろ、疎開先の明覚寺(現北広島町)に向かった。それが運命を変えた。

 父貫一さん=当時(53)、姉初代さん=同(29)、兄功さん=同(15)=は爆心地から約600メートルの自宅で被爆し、犠牲になった。勤めに出た姉重子さん=同(27)、学徒として動員された兄文夫さん=同(13)=は、遺骨さえ見つからなかった。

 明覚寺への疎開児童は36人。ぽつぽつと迎えが来たが、8月末でも10人以上が残っていた。その1人だった吉村さんには、近くの農家から養子縁組の申し入れがあった。話が進んでいた9月8日、復員した兄2人が迎えに来た。

 「さようなら」。吉村さんは残る下級生たちと何度も声をかけ合い、寺の石段を下りた。誰しも心細い中、上級生として明るく振る舞い、励まそうと努めていた。「弟や妹を置き去りにするような気持ちでした」

夏に思い出し涙

 何年も生活は苦しかったが、兄2人と助け合って広島大を卒業し、国家公務員になった。毎年夏の終わりになると明覚寺での集団生活を思い出し、涙があふれた。結局迎えが来なかった1学年下の女子は、近くの農家の養子となっていた。最後に残った2人は、11月末に市内の「比治山迷子収容所」に託されたと引率教員の手記で読んだ。

 原爆で親を失った孤児は2千人とも6500人ともいわれる。疎開先にいて、放射線の健康被害を救済する被爆者援護法上の「被爆者」にあたらず援護の枠外に置かれてきた人が多い。

 「家族を失って大変苦労された。国は何かできなかったのか」。明覚寺の門徒で近くに住む箕牧さんは、胸を痛めてきた。2008年、住職たちと協力して、元疎開児童8人と神崎小の児童を明覚寺に招いて親睦会を開催。吉村さんとは、このときに知り合った。

 箕牧さんは今、吉村さんの手紙を手元に置き、広島サミットに託されたものをかみしめている。首脳が広島で向き合うべきは「被爆者」の思いだけではない、と。原爆や空襲で家族を失った遺族、戦争被害者の記憶を受け継ぐ若者…。誰にも同じ思いをさせまいと、平和を願う「ヒロシマの声」は地域も世代も超えて共有されているからだ。

 ロシアのウクライナ侵攻で先行きが不透明な時代だからこそ箕牧さんは説く。「歴史を振り返ったとき、『あの日』から良くなったというサミットにせんと」。核兵器も戦争もない世界をつくる「原点」に―。そう強く願い、19日であと3カ月となる開幕を待つ。(編集委員・水川恭輔) =おわり

(2023年2月18日朝刊掲載)

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