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柳井に平和記念館 米軍機墜落と乗員の被爆紹介 武永さん開設 調査続けた森さんとの交流も

 太平洋戦争末期、米軍機が墜落した柳井市伊陸(いかち)に私設の平和記念館がオープンした。捕虜として広島市内へ連行された乗組員は、米軍が投下した原爆の犠牲になった。原爆に遭わずに生き残った元機長と米兵の調査を長年続ける被爆者の交流にも触れ、戦争の悲劇を伝える。(山本祐司)

 地元で記憶を継承する会社社長武永昌徳さん(71)が長さ10メートル、幅3メートルのトレーラーハウスを購入し完成させた。部屋の中央には、2016年に広島市を訪れた当時のオバマ米大統領と被爆死した米兵を40年以上調べる広島市西区の被爆者森重昭さん(85)が抱き合う姿の油絵を据えた。富山県の画家が制作した作品で、森さんが記念館に贈った。

 展示はパネルを中心とする。米兵がパラシュートで不時着した場所を示す詳しい地図や墜落した米軍機の写真などを15枚にまとめ紹介する。実物資料は機体や銃弾の破片を収蔵する。展示品は武永さんが集めたほか、友人や戦史を学ぶ人たちが寄せてくれた。

 記念館の構想は、16年に米兵の遺族と森さんを追ったドキュメンタリー映画を柳井市内で上映した時に生まれた。武永さんも制作を手伝った一人だった。映画を見た市民から「資料館はないのか」と聞かれ「将来的に造りたい」と約束した。現地には住民が1998年に建てた「平和の碑」はあるものの、資料を展示した場所はなかった。

 自身も小学生の頃、友だちと米軍機の破片を拾いに行った思い出はある。だが米兵が広島で被爆死したことは、50歳を過ぎて森さんの寄稿文を読むまでは知らなかった。戦争を体験した住民は少なくなり、記憶の風化を感じた。森さんと連絡を取り始め、関心を深めた。

 広島から東京へ移送され被爆を免れた元機長のトーマス・カートライトさん(2015年に90歳で死去)が編んだ言葉も胸に刻む。「戦争は破壊と憎しみの連鎖を生み、平和は人々に幸福と繁栄をもたらす」―。同胞を悼むため99年に来日した時、森さんや伊陸地区の住民と話す中で生まれた。

 ロシアがウクライナに侵攻して1年がたった。核兵器使用がちらつくまでに世界情勢は不安定さを増した。「こんな時だからこそ核兵器の恐ろしさと戦争の理不尽さを知らせる必要がある」と武永さんは記念館の意義を強調する。仕事をしながら希望者に開放する。

 見学は予約制。「伊陸ロンサムレディ号平和記念館」のフェイスブックで受け付ける。

柳井市伊陸に墜落した米軍機
 1945年7月28日、沖縄県の読谷飛行場を出発した米軍のB24爆撃機ロンサムレディー号は、呉沖に停泊中の戦艦榛名を攻撃後、対空砲火を浴びて山口県伊陸村(当時)に墜落した。乗組員9人は脱出したものの、捕虜として広島市の中国憲兵隊司令部に収容された6人は、米軍が8月6日に投下した原爆の犠牲になった。

(2023年2月27日朝刊掲載)

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