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社説・コラム

『想』 千島寛(ちしまひろし) 中国残留婦人 林薫

 ある夏、私はテレビで全国高校野球選手権大会を見ながら、母校でもない故郷の代表校を応援していた。「応援する気持ちはどこから湧いてくるのか」ととりとめもなく考えていているうちに、「故郷とは何か」という疑問が出てきた。

 そんな折、中国残留婦人の存在を知った。1945年の敗戦時、旧満州(中国東北部)から日本へ帰国しようとしたが帰国できなかった13歳以上の日本人女性を中国残留婦人と呼ぶ。「自分は日本人だ」という意識を持っている彼女たちを撮影することで「故郷とは何か」という疑問の答えが明確になるのではないか。そう思い、私は95年から22回、中国へ渡り、中国残留婦人をカメラに収めた。

 広島市出身の林薫さんとの出会いは、95年7月末、黒竜江省チチハル市だった。当時林さんは、めいが住む広島県熊野町に永住帰国するのを翌月に控え、準備に奔走していた。

 19歳で南満州鉄道社員の妻として旧満州へ渡り、幸せに暮らしていた。敗戦直後の冬に相次いで2人の実子を亡くし、精神が不安定になってしまう。なんとか元気になって、住み込みで子守などをして働き「生きるため」に中国人の妻となった。

 新居の隣で暮らす中国人女性と姉妹のように仲良くなり、同時期に妊娠。その女性は無事女の子を出産したが、林さんは流産してしまう。直後、隣家の夫婦から「女の子を両家の娘として育てたい」と提案があり、林さん夫婦は受け入れた。

 友人の中国人女性は娘が11歳の時に亡くなり、林さんがその女の子を大切に育て上げた。後に2人の孫に恵まれ、孫たちは林さんを「おばあちゃん」と呼び慕った。血縁関係はなくても家族関係が生まれたのだ。

 林さんは、永住帰国をして育ての娘家族を呼び寄せようとしたが許可が下りず、孫と一緒に暮らせる中国へ戻った。戦争は、林さんの人生を大きく狂わせた。昨年、私は写真集「中国残留婦人―家族―」を出版した。ぜひ手に取って、林さんたち4人の女性の辛苦に思いをはせてほしい。(写真家)

(2023年2月25日朝刊セレクト掲載)

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