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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <1> 唱歌「ふるさと」 民心引き締めの国策で誕生

 鳥取駅が近づくと智頭急行の列車内に懐かしいメロディーが流れた。軽快な3拍子の唱歌「ふるさと」である。作曲した岡野貞一(ていいち)は現在の鳥取市出身で、鳥取城跡の入り口に五線譜付きの歌碑が立つ。

 「故郷(ふるさと)」(当時の表記)は大正3(1914)年、長野県出身の作詞者高野辰之とのコンビで作られた。世紀を超えて歌い継がれる尋常小学6年用の文部省唱歌を生んだのは、当時の国策だった。

 明治末期、日露戦争の緊張から解放された人々の間で国より個人を重んじる風潮や社会主義への共感も広がった。危機感を抱いた第2次桂太郎内閣は明治41(08)年、明治天皇による戊申(ぼしん)詔書を発布して勤倹を奨励する。民心引き締め策だった。

 翌明治42(09)年、尋常小学の学年ごとの唱歌を編さんする委員会が東京音楽学校に設けられ、岡野、高野も委員となる。文部省の指示は、教育勅語や戊申詔書に沿って徳性を養う内容にすることだった。

 「兎(うさぎ)追ひしかの山、小鮒(こぶな)釣りしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷」。郷土愛ひいては国を愛する心を育む1番。2番の「如何(いか)にいます父母」は親元を離れて募る孝心を表す。

 3番の「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」という立身出世志向は近代教育の基調だった。くしくも地方から東京に出て音楽学校教授となる岡野や高野の半生と合致する。

 2人は明治44(11)年、1年用の唱歌「日の丸の旗」も作った。1番「白地に赤く日の丸染めて、あ うつくしや日本の旗は」はずばり愛国心の植え付け。2番「朝日の昇る勢ひ見せて、あ 勇ましや日本の旗は」は好戦的で軍隊を連想させる。

 明治45(12)年、明治天皇が亡くなる。陸軍による倒閣を経て生まれた第3次桂内閣は大正2(13)年、「閥族打破・憲政擁護」を叫ぶ民衆の直接行動であえなく倒壊した。

 大正時代の自由な空気を吸った人々は、やがて国策の歌に飽き足らなくなる。歌は世につれというが、世の中が歌を追い越した。

 時代の要請に応えたのは、広島出身の鈴木三重吉が大正7(18)年に創刊した児童雑誌「赤い鳥」だった。(山城滋特別編集委員)

岡野貞一
 1878~1941年。鳥取藩士家出身で姉の影響でキリスト教徒に。岡山で英語を学び東京音楽学校へ。唱歌「春が来た」「桃太郎」「春の小川」や「水師営の会見」のほか多数の市歌、校歌を作曲した。

(2023年2月28日朝刊掲載)

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