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社説・コラム

天風録 『井上ひさしと二つの核』

 「生きとるんが申しわけのうてならん」。井上ひさしさんの名作「父と暮せば」の主役、美津江は原爆で生き残ったつらさをよく口にする。あの世から現れた父に諭され、希望を取り戻すまで▲希代の劇作家は執筆のため広島で数多くの手記や資料を精読した。この戯曲の十数年前に書いたノンフィクション「犯罪調書」の手法も、どこか似ている。古今東西の事件記録を読み込み、解釈を加えた短編集。その一つに意外な形で核が登場する▲戦後10年の東京郊外で飲食店主が殺され、顔見知りの19歳の少年が逮捕された事件。作品では許し難い犯罪までの経緯を語りつつ犯人の来し方に目を向けた。父の古里広島で原爆に遭い、盗みを重ねて生きてきた、と▲仲間に「ピカドンにやられているから長くない」とよく口にしていた少年。やけくそになったのは犯行1年前に世界をゆるがせた事件からだ、と井上さんは筆を進める。ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)である▲核の巨大な暴力に翻弄(ほんろう)された人たちの絶望、そして希望。温かい目で読み取った作者が世を去り、13年になる。その願いと裏腹に核をなくす道のりは遠い。きょう被災69年のビキニデーを迎える。

(2023年3月1日朝刊掲載)

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