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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <2> 童謡運動 自由で進歩的 「赤い鳥」創刊

 鈴木三重吉は明治15(1882)年、広島市中心部の猿楽町(現中区紙屋町2丁目)で生まれた。「児童雑誌『赤い鳥』を創刊して全国の子どもたちの夢を育てた」と記す生誕の地碑(レリーフ)がエディオン広島本店東館の壁面にある。

 「赤い鳥」の創刊は、第1次世界大戦の戦時景気に沸く大正7(1918)年。都市に人口が集中し、新中間層の給与生活者たちは子ども中心の家庭を築く。自由で進歩的な教育を求める機運が生まれていた。

 「世間の小さな人たちのために、芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する、最初の運動を起こしたい」と三重吉は宣言した。

 童謡運動は詩人の北原白秋と始めた。国策に沿った学校唱歌を三重吉は低級視し、白秋は「非芸術的で功利的」と批判した。それに代わる「赤い鳥」童謡の代表作は、大正8(19)年の「かなりや」(西条八十(やそ)作詞、成田為三作曲)である。

 「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は 後(うしろ)の山に棄(す)てましょか いえいえそれはなりませぬ/唄を忘れた金絲雀は 背戸の小藪(やぶ)に埋めましょか いえいえそれもなりませぬ/唄を忘れた金絲雀は 柳の鞭(むち)でぶちましょか いえいえそれはかわいそう」。怖さ交じりの驚きを子どもたちに与えた。

 続いて「唄を忘れた金絲雀は 象牙の船に銀の櫂(かい)/月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもひだす」と夢物語に誘う。そこに「お国のため」という政治性や「立身出世」的な社会性はみじんもない。

 「わらべ歌の復興」に白秋が託したのは、祖国の風土や伝統に根ざした童心の新たな発露だった。国粋主義とも響き合う価値観である。

 後に評論家の吉本隆明は、政治や社会的な主題を失った童謡に大正期大衆ナショナリズムの特徴を見いだした。昭和期には農村や家の風景、別離などの主題がより抽象化されて情緒的な迫力を歌曲は失い、大衆的心情はウルトラナショナリズム(天皇制主義)に吸引されたという。

 満州事変勃発5年後の昭和11(36)年に三重吉死去。同年の二・二六事件を経て子どもの世界からも自由な空気は失われる。御真影と教育勅語を納める奉安殿が広島県の学校にも次々と建てられた。(山城滋)

「赤い鳥」
 童話、童謡からなる月刊児童誌。高い文学性や芸術性が評判となり最盛期に3万部。2年近い休刊を挟み鈴木三重吉死去の昭和11年まで発行。類似雑誌も次々に出て、児童文学や児童文化の興隆を支えた。

(2023年3月1日朝刊掲載)

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