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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <3> 大正政変 憲政擁護運動 桂内閣倒す

 大正元(1912)年末から「閥族打破・憲政擁護」を叫ぶ一大国民運動が東京そして全国に広がった。第3次桂太郎内閣を倒す大正政変につながった憲政擁護運動である。

 その先頭に立って「憲政の神様」と称された犬養毅(いぬかいつよし)の生家は岡山市の西郊にある。江戸期の大庄屋住宅だが、13歳で父を失った犬養は家計を助けるために私塾を開いた。

 上京後は新聞記者をして自由民権運動の論客となり、立憲改進党の結成に参加。衆院議員として改進党や後継政党で大隈重信の参謀役に。民党(野党)の立場で長州閥と敵対して薩摩閥と結ぶ策士でもあった。

 大正政変時は57歳。参謀の古島一雄とマスコミ界の支持を得て立憲国民党リーダーとして勝負に出る。

 きっかけは陸軍による朝鮮への2個師団増設問題だった。最大政党立憲政友会の第2次西園寺公望(きんもち)内閣は財政逼迫(ひっぱく)時に増設は不急として認めず、上原勇作陸軍大臣は辞表を提出。陸軍は後任陸相を出さず、内閣は大正元年12月5日に総辞職した。

 陸軍バックの元老山県有朋や内大臣兼侍従長に転じた桂による倒閣とみて世論は反発する。後任選びは難航の末、同月21日に3度目の桂内閣が発足。大正天皇から海軍大臣留任のお沙汰を発してもらった桂は、天皇利用との激しい批判を招いた。

 翌大正2(13)年1月、桂は新党設立に乗り出す。諸政党を内部分裂させる狙いで、国民党からも約半数が脱党した。憲政擁護運動を始めた犬養は残余党員を率いて政友会との提携に動く。民権運動の系譜を引く民党連合で閥族打破を目指した。

 盟友の尾崎行雄も合流した。演説会で2人が登壇すると「脱帽」と声がかかり万雷の拍手。桂内閣への弾劾演説に多くの参加者が魅了され、2人は憲政の守護神となる。

 桂の新党は93議員の獲得にとどまる。桂はまたも天皇のお沙汰で内閣不信任案の撤回を西園寺に迫るが逆効果に。議事堂を囲む数万の群衆は議会停会の報に憤激して警官隊と激突。暴徒となって警察署、交番や政権支持の新聞各社を襲撃した。



 暴動鎮圧に軍隊まで出動させる事態となり、桂内閣は同年2月11日に総辞職した。(山城滋) 犬養毅
 1855~1932年。号は木堂(ぼくどう)。改進党、進歩党、憲政党、憲政本党など経て明治43年に国民党創立。昭和6年に首相、翌年の五・一五事件で暗殺された。生家に隣接して犬養木堂記念館がある。

(2023年3月2日朝刊掲載)

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