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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <4> 二つの伏線 増税への不満と物言う民衆

 陸軍の2個師団増設問題をきっかけに爆発した国民の怒りには伏線があった。まず増税への不満である。

 元老や御用商人は戦争で潤い、国民が得たのは増税だけ―。日露戦争から3年の明治41(1908)年、国民が税の重荷に身をよじる風刺画が漫画誌「東京パック」に載った。

 ロシアから償金が取れなかった戦後の政府は、戦費の公債返済で財政難に陥る。政友会総裁の西園寺公望(きんもち)の第1次内閣はやむを得ず戦時の非常特別税を恒久化した。

 それだけで済まない。陸軍はロシアの復讐(ふくしゅう)戦を恐れ、海軍は大艦巨砲競争に負けまいと共に軍備拡張を求めた。元老山県有朋との妥協で生まれた内閣は、軍拡を続けるために大増税を画策する。

 酒税・砂糖消費税の増徴と石油消費税の新設である。法案の国会審議が始まった明治41年1月、全国の商業会議所連合会が増税反対を決議した。「国防軍備だけに偏り、国力充実を図る施策はなおざり」と政府の財政政策を真っ向から批判した。

 経済団体による初のおおっぴらな反軍拡の表明。「商業会議所法を逸脱する政治介入」と農商務省は警告したが、同連合会は各地の実業組合への働きかけを強める。東京実業組合連合会は、衆院選で増税賛成議員を再選させない方針も決めた。

 政府支持の特権的財閥と違い、産業革命期に成長した民間の中小実業家にとり増税は民力をそぐ元凶だった。反対運動の拡大を恐れた政府は2月初め、少数野党の反対を振り切って増税法案を衆院通過させた。

 もう一つの伏線は、物言う民衆の登場である。その先駆けとなる日露戦争の講和反対運動は全国に広がり、東京では反政府暴動に発展した。以降、各地で「官」への異議申し立てが相次ぐ。

 広島県では明治41~42(09)年、画一的な稲の共同苗代の導入を強制する県に対し、農民が反対に立ち上がる。広島市での県民大会に2万人が集まり、芸備日日新聞がキャンペーンを展開。県は方針を撤回した。

 増税反対運動はいったん尻すぼみとなるが、軍拡・増税路線への批判が公然化した意味は大きかった。きっかけ次第で民衆運動へ広がる可能性を秘めていたからだ。(山城滋)

 日露戦争後の軍拡計画 明治40年の国防方針で陸軍は平時17師団を将来25師団へ、海軍は八八艦隊(戦艦8、巡洋艦8)へ拡張を計画。陸軍は第1期新設が2個師団などにとどまり、朝鮮配置の2個師団新設を強く求めた。

(2023年3月3日朝刊掲載)

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