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社説・コラム

[A Book for Peace 森田裕美 この一冊] 「象は忘れない」柳広司著(文春文庫)

原発事故 忘却への怒り

 〈象は忘れない〉。記憶力の良さを表す英語のことわざである。英国の推理作家アガサ・クリスティも長編の題名にし、名探偵ポワロが記憶を手掛かりに古い事件に迫る作品を書いた。

 同じ書名だが、本書はミステリーではない。象が想起させるのはむしろ旧ソ連チェルノブイリ原発事故で生じた「象の足」のほう。東京電力福島第1原発事故によって暮らしや人生が一変した人々の姿を描いた、連作短編集である。

 能のごとく、死者の無念や言葉にならない声をも伝える重要性を暗示しているのだろうか。各短編は能の演目を借用して進む。

 「道成寺」の主人公は、原発城下町に育ち、安全神話を疑わない作業員。事故に遭遇し命の危機にさらされながら、昔の恋人の警告を思い起こす。「卒都婆小町(そとばこまち)」は、子連れで東京に避難した母親の目線で見たその後の日本社会。被災地と都会との落差や被災者を置き去りに進む議論への違和感が、現実の世相とともに絶妙に表現される。

 助かったかもしれない人を見捨てて逃げた若者や「トモダチ作戦」に参加した米兵が負った心の傷、国や電力会社といった巨大権力がもたらした住民の分断…。一人一人にとっては忘れ得ぬ記憶を、忘却したり忘れさせようとしたりする社会の動きも含め、構造的な暴力を浮き彫りにする。

 本書単行本が世に出たのは事故から5年後。さらに7年がたち、いまや政府は原発推進にかじを切る。人類は核を制御しきれない―。あれほど思い知らされ「忘れまい」と胸に刻んだはずの私たちは、象のように記憶できているだろうか。著者の怒りが静かに伝わる一冊である。

これも!

①天童荒太著「いまから帰ります」(新潮社「迷子のままで」所収)
②天童荒太著「ムーンナイト・ダイバー」(文春文庫)
③桐野夏生著「バラカ」(上・下)(集英社文庫)

(2023年3月6日朝刊掲載)

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