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社説・コラム

『潮流』 広島菜の物語

■論説副主幹 山中和久

 広島菜の古里、広島市安佐南区川内地区の若手農家を支援するクラウドファンディングの返礼で先日、広島菜漬の工場を見学し、当地を巡る機会を得た。隣の地区で育った者として応援したかったし、川内がどう変わったのかを見たかった。

 明治期の川内で、京菜と観音寺白菜を交配したのが広島菜の発祥とされる。太田川と古川に挟まれ、水はけの良い土は菜に適した。ところが急速な宅地化で栽培面積は20年前の3分の1に減っていた。

 店舗が並ぶ山陽自動車道の高架沿いから一歩入ると、住宅やアパートの間に畑はまだ残っていた。菜の花の鮮やかな黄色が目にとまる。種を取るため畑の隅で咲かせたものだ。

 「からし菜退治」という聞き慣れぬ行事がきょう、行われる。生産者や漬物会社、区、JAの担当者ら広島菜に関わる人が総出で太田川の河川敷に自生するカラシナを駆除する。同じアブラナ科で交雑を防ぐためだ。「種は川内の命」と案内役の上村隆介さん(39)は話した。広島菜を次代につなぐ大事な営みである。

 普段の食卓に並ぶ存在にしようと上村さんらは「ミニ広島菜」の生産を始めた。漬物用は秋に出荷が始まるが、ハウス栽培で一年を通じて出荷できる。特有の風味を残しつつ、生でも炒め物でも食べやすい。どう流通させるか、試行錯誤が続く。

 川内は「ピカの村」と長らく呼ばれた。78年前のあの日、川内の国民義勇隊は今の平和記念公園一帯の建物疎開作業に動員され、約200人が全滅した。一家の働き手を失った女性や子どもたちが、生き延びるために栽培したのが広島菜だった。

 上村さんの曽祖父は遺族会の初代会長で、祖父、父と慰霊祭の世話役を担ってきた。「この地で広島菜を守る使命がある」と上村さん。その思いと一緒に味わった土産の広島菜漬は、変わらずおいしかった。

(2023年3月4日朝刊掲載)

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