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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <5> 三つの推進力 広がる護憲 衆院門前に群衆

 大正政変につながった憲政擁護運動には三つの推進力があった。陸軍の2個師団増設にいち早く反対した経済界、陸軍の倒閣運動で第2次西園寺公望(きんもち)内閣が総辞職した後に護憲を唱えた政治家と新聞記者である。

 この時の西園寺内閣は政友会色がかなり強く、陸軍の増師要求を拒んだ。軍事費は明治44(1911)年度歳出の35%を占めて財政を圧迫し、その整理が緊急課題だった。

 翌大正元(12)年10月、全国商業会議所連合会は政府の行財政整理方針への支持を決議。中野武営(ぶえい)会頭率いる東京商業会議所に続いて各地の会議所が増師反対を決議した。

 軍拡一辺倒は国財政の基礎を危うくするとの考えからである。ロシア脅威論に基づく増師についても「かえって極東の軍拡競争を招く」と経済誌の東洋経済新報は指摘した。

 西園寺内閣が倒れ、長州閥で陸軍軍人の桂太郎の後継がうわさされていた同年12月14日、憲政擁護のために犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄ら反藩閥の政治家と新聞記者たちが集う。最大政党の政友会も巻き込んだ。

 第3次桂内閣の成立前に3千人の集会を開催。「閥族打破・憲政擁護」の運動は、新聞報道で全国に広がる。陸軍の横暴ぶりに加え、元老の密議を経て内大臣桂が皇室の力を借りて再登場することが、立憲政治への危機感をかきたてた。

 翌大正2(13)年1月、桂新党の創設で国民党は真っ二つに割れ、党に残った逆境の犬養に同情が集まる。犬養支持の記者組織ができ、全国の新聞社から参加が相次いだ。

 衆院に内閣不信任案が出された同年2月5日、議事堂周辺を反桂内閣の群衆が取り囲む。停会明けの同月10日、再び停会と聞いて群衆たちは激高し、暴動に発展した。

 広島県で三つの推進力を兼ね備えていたのが広島商業会議所会頭で衆院議員、さらに芸備日日新聞を主宰する早速整爾(はやみせいじ)である。

 芸備日日新聞は大正元年11月末に増師反対のキャンペーンを始めた。12月1日の社説では商業会議所による増師反対決議の全国波及に期待する。上原勇作陸軍大臣の辞職を受けた同月3日には「陸軍と一戦せよ」と勇ましい見出しを掲げ、広島の護憲運動を引っ張った。(山城滋)

早速整爾
 1868~1926年。現在の広島市西区出身。東京専門学校を出て明治22年、早速家に入り芸備日日新聞主筆、後に社長兼務。広島県議、広島市議や衆院議員当選8回。憲政会所属の大正14年から農林大臣、同15年に大蔵大臣。

(2023年3月7日朝刊掲載)

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