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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <6> 護憲運動と2紙 対立激化 広島でも襲撃事件

 第3次桂太郎内閣が大正元(1912)年12月21日に発足した。3日後の芸備日日新聞は「新内閣が議会解散や新聞発行禁止、人民検束を乱用しても民衆には勝てない」と反桂内閣の護憲運動を鼓舞した。

 広島で同紙と勢力を二分する中国新聞は翌大正2(13)年1月18日、桂首相の新党創設発表に「我国憲政の一進歩」と賛意を表す。同社の山本三朗社長は地元選出代議士らと与党の中国支部を設けようとした。

 広島市と呉市で1月中旬、新聞記者たちが「憲政擁護」「閥族掃討」を決議した。芸備日日新聞など地元紙や大阪紙・通信社支局の記者たちで、中国新聞は除外された。

 同年2月10日、国会を包囲した数万の民衆が警官隊と衝突後、政府支持の諸新聞社を襲撃。翌日に桂内閣は総辞職した。意気上がる護憲派は各地で祝賀の集会や演説会を開く。

 広島市で同月16日夜にあった演説会は2千人余で異様な興奮状態に。閉会後に暴徒化した群衆が大手町の中国新聞社を襲撃した。「官僚新聞を打ち壊せ」と叫び、投石で窓ガラスを割り砕いた。山本社長宅や交番も襲い、騒ぎは深夜まで続いた。

 同月18日の芸備日日新聞は「広島市の官僚党征伐」と報道。中国新聞は「暴徒来!!!是(こ)れ果(はた)して何者の煽動(せんどう)ぞ?」と背後に目を向けた。検挙された15人中20歳以下が9人。扇動した機械製造業の45歳は早速整爾(はやみせいじ)(衆院議員、芸備日日新聞主宰)派の院外団を自任していた。

 野党系の芸備日日新聞と政友会など与党系の中国新聞はことあるごとに争い、泥仕合も演じた。中国新聞は衆院選のたび早速の対立候補を支援するが、早速は選挙に強かった。大正9(20)年衆院選での手痛い敗北を機に中国新聞は政党との縁を絶ち、新聞経営に専念する。

 芸備日日新聞は政党機関紙的な性格から抜け切れずに伸び悩み、やがて中国新聞に部数で大きく水をあけられた。大正15(26)年5月、摂政宮に随行して早速農林大臣が帰郷した。広島駅に出迎えた山本社長の手を握って早速は「私は政界で宿志を遂げたが、果たしていずれが成功したといえるだろうか」と感慨深げに語ったという。(山城滋)

その後の2紙

 芸備日日新聞は大正15年9月の早速社長病没後に急速に衰えた。昭和10年、中国新聞に事実上吸収されても題字を変えず発行したが、同16年に呉新聞(中国新聞姉妹紙)に合併。呉新聞は同20年に中国新聞に実質合併。

(2023年3月8日朝刊掲載)

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