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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第1部 軍都への歩み 宇品築港 <1>

広大な干潟 支障と恩恵

 明治二十二(一八八九)年四月一日の広島市誕生に続き、十一月三十日に産声をあげたのが海の玄関、宇品港(現在の広島港)である。五年三カ月を要した宇品築港。琵琶湖疏水工事とともに「天下の二大工事」とうたわれ、当時の技術を駆使した大事業だった。

潮待ちの不便さ

 築港に精力を注いだ起因として、地形・環境に注目する必要がある。広島は太田川下流のデルタ上に発達した都市である。「広島」の地名もデルタ最大の砂地に由来するともいわれる。太田川からの大量の土砂が広島湾に注いで堆積(たいせき)し、遠浅の干潟を形成していった。

 その土砂を活用し、江戸時代に干拓や新開地開発が本格化した。「干潮になると、宇品から江波あたりまで海を歩いて潮干狩りに行けた」。古老は、今はなき干潟の規模を懐かしむ。

 裏返せば、干潟が航行に支障をきたしていたこともうかがえる。江戸時代の海港としては草津、江波島、宇品島があった。それらの港は川船と海船の中継場所程度で本格的なものではなく、中継や潮待ちの不便さは増すばかりだった。明治時代となり、各方面との交通が頻繁になるとますます干潟が厄介者となった。

養殖には好条件

 一方で、その干潟から恩恵を受け、生計を立てる人々もいた。大潮では干満差四メートル、栄養分を含んだ淡水と海水が混じりあうこの海域は、カキ・ノリの養殖には好条件の漁場だった。干潟に竹ひびを刺し、そこに付着したカキ・ノリを収穫し、先祖代々、干潟と共存してきた。

 そんな穏やかで波静かな広島湾の風景に、約二百三十万平方メートルに及ぶ広大な土地である「宇品」と、その南端には港が威風堂々と誕生するのである。(広島市郷土資料館学芸員・山県紀子)

(2008年4月13日朝刊掲載)

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