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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第1部 軍都への歩み 宇品築港 <2>

千田県令、困難越え実現

 広島の、いわゆる偉人伝を語るとき、欠かすことのできない人物の一人は千田貞暁(さだあき)(一八三六-一九〇八年)だろう。現在の中区の町名にその名を残すまでに彼を偉人とさせた業績のひとつが宇品築港である。

 もと薩摩藩士、戊辰(ぼしん)戦争を戦い抜き、東京での役人生活を経て広島県令に任命されたのは明治十三(一八八〇)年四月。着任早々、彼はすでに構想されていた宇品築港の具体化にとりかかった。

工費 予定の4倍

 一年余りかけて築港計画をまとめた。総工費は想定をはるかに超え、当時の県財政では到底調達できなかった。工法などの工夫で工費を半額以下に圧縮し、資金面のめどを立てた。建設に反対する近隣住民を説得し、起工式にこぎ着けたのは明治十七(一八八四)年九月。着任から四年以上の歳月がたっていた。

 着工後も風雨による堤防の相次ぐ決壊、労働者・資材不足による経費の高騰など、困難は続いた。それでも千田は事業を押し通した。「築港は一地方の利益だけでなく、陸海軍の便益にもなる」として国庫補助を申請。予定の二倍の工期と四倍近い工費をかけて明治二十二(一八八九)年十一月、事業は終了した。資金不足に対し、彼が私財の提供を申し出たことはよく知られている。

後に評価高まる

 ところで千田は工事計画の甘さの責任を問われて罰俸の処分を受け、十二月には新潟へ転任となる。翌年四月の宇品港の落成式を待たず、広島を去った。

 宇品港も完工してしばらくは無用の長物として軽んじられたようだ。港としての真価を発揮するのは明治二十七(一八九四)年の日清戦争に伴い軍用港として利用され始めてから。千田が軍都広島の繁栄の礎を築いたとして高く評価されるようになるのもこのころからである。(広島市郷土資料館学芸員・大室謙二)

(2008年4月20日朝刊掲載)

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