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廣島 広島 ひろしま 第1部 軍都への歩み 宇品築港 <3>

兵員が集結 続々戦地へ

 宇品港は明治二十七(一八九四)年、歴史の転換点を迎える。

 六月十日に山陽鉄道の糸崎―広島間が開通し東京とも鉄路で結ばれた。朝鮮半島をめぐり清国との緊張が切迫し、開通の五日前、東京の陸軍参謀本部に大本営が設置された。広島を本拠地とする陸軍部隊の第五師団にも動員命令が出た。

鎮台から師団に

 明治政府は明治四(一八七一)年、各藩の藩兵を解散させ、政府の軍隊として全国に四つの鎮台を設置した。広島には鎮西鎮台(熊本に本営)の第一分営が置かれた。二年後には広島鎮台となり、名古屋鎮台を加え全国を六軍管区とした。

 反政府勢力の鎮圧が目的だった鎮台は、外地での戦闘も可能な軍隊へと変化していく。明治二十一(一八八八)年、鎮台は師団に編成替えとなり、広島鎮台は第五師団となった。

 清国との戦いに向け、動員命令を受けた第五師団は兵員を非常召集した。六月九日、先陣を切って第五師団歩兵第十一連隊第一大隊が宇品港から出発。広島市街はにわかに臨戦地の様相を帯びた。以後、兵員や物資が鉄道で行ける最西端の広島に集結。五年前に完成した宇品港から、兵士たちが続々と戦地へ向かった。

軍用鉄道も仮設

 宇品港までさらに迅速に輸送するため、広島停車場から港まで軍用鉄道(のちの宇品線)も仮設されることになった。八月一日の清国への宣戦布告から三日後に着工し、わずか十七日で完成。海陸結節で拠点性がさらに高まった。そこには、日清戦争を機に広島を全国規模の都市に躍進させようという伴資健広島市長の強い意思が働いていたといわれる。(広島市交通科学館学芸員・秋政久裕)

(2008年4月27日朝刊掲載)

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