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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第1部 軍都への歩み 軍用水道と桜の池

伝染病防ぐために設置

 ひろしま美術館(広島市中区)の裏、城南通りに面した歩道に、日清戦争時に明治天皇が使用された水をくみ上げたという井戸がある。当時、広島に水道はなく、市民も井戸水やわき水、太田川の水などを利用し、水売りの商売もあった。しかし、これらの水の多くは衛生上問題があり、水を経由して広がる伝染病がたびたび流行した。

参謀総長が死亡

 日清戦争中、全国から大勢の兵士が広島に集結し、宇品港から船で大陸へ向かったが、折あしく広島で赤痢や腸チフスが流行した。そのひどさは明治天皇とともに広島大本営で執務していた陸軍参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が腸チフスで亡くなられたほどである。伝染病が軍隊にまん延しては戦争どころではない。呉の軍用水道から水船を連ねて運ぶなどして急場をしのいだが、広島への水道設置は急務となった。

市民用も認める

 日清戦争終結半年後の明治二十八(一八九五)年十一月、勅令が公布され、軍用水道が布設されることになった。それに市民用の水道を接続することも許可された。三十一(一八九八)年八月の竣工(しゅんこう)後、軍用水道は広島市に無料で貸し下げられ、市水道とあわせて翌年一月から給水を始めた。近代的な水道としては横浜、函館、長崎、大阪、東京に次ぐ六番目であった。

 当時を伝えるものが広島城内に残る。本丸上段の南東隅、大本営跡の前にある池の跡である。池は明治三十一年に軍用水道工事の一環で設けられ、のちに「桜の池」という美しい名前を付けられた。中央の築山から、かつては勢いよく水を噴き出していたという。(広島城学芸員・村上宣昭)

(2008年6月1日朝刊掲載)

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