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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <8> 満州放棄論 領土膨張が招く負担増指摘

 海軍汚職の発覚で山本権兵衛(ごんべえ)内閣が倒れた後、元老による後継選びは難航した。

 候補の最後に残った大隈重信による第2次内閣が大正3(1914)年4月に成立。打倒政友会を託す長州閥の元老たちが事前に政策を擦り合わせて推挙し、故桂太郎創設の立憲同志会が与党になる。

 76歳の「民衆政治家」復活は、政友会一党支配に飽いた人心に新風を送り込み、メディアは喝采(かっさい)した。護憲運動を主導した犬養毅(いぬかいつよし)は長州閥の傀儡(かいらい)と見抜いて入閣を固辞した。

 大正デモクラシーの入り口に当たる護憲運動を「民主」と呼ぶには二つの問題があった。一つは普通選挙の実現を掲げていないことである。

 もう一つのより本質的な問題は、「内に立憲主義、外に帝国主義」の使い分けだった。日清・日露戦での領土拡大を経て、満州(現中国東北部)掌握と大陸発展は自明の理とする見方が広がっていた。護憲論者たちの多くも例外ではなかった。

 護憲運動は一方で、陸軍の朝鮮への2個師団増設に反発する世論の結集でもあった。国家財政を圧迫する軍備拡張への反対論を突き詰めていくことで、真っ向から満州放棄を主張する論調が現れる。

 東洋経済新報社主幹の三浦銕太郎(てつたろう)による「満州放棄か軍備拡大か」との論考で、大正2(13)年1~3月の同新報誌に連載した。

 満州掌握策は潜在力を増すロシア軍と際限ない軍拡競争を招く、と三浦は指摘する。「現19個師団から2個師団増設はおろか陸軍理想の25個師団に拡張しても足らない」と。

 中国統治下にあり人口の九割九分が中国人の満州を日本が掌握しても経済的発展は見込めず、負担増になる、と三浦はみる。領土膨張欲が大陸へ、さらに中国分割へ向かうなら「日英同盟の精神と根本的に相いれなくなる」と断じた。

 三浦の満州放棄策とは、南北満州の境(長春の北方)にある国防線を朝鮮国境と旅順にまで退かせる案である。これで年間約1億円の軍事費(国民負担)が節減でき、国防上の安全も増すと論じた。

 論旨明快である。読者とりわけ営業税廃止を求める商工業者たちの胸に響いたに違いない。(山城滋)

軍事費節減の想定
 満州放棄策を採れば日露戦争前の水準に減ると三浦は想定。陸軍は明治44、45年平均9200万円から5500万円、海軍は同8900万円から4500万円の計1億円(国歳出の18%相当)が節減可能とした。

(2023年3月10日朝刊掲載)

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