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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <10> 最後の長州閥 総力戦国家 基盤づくり着手

 首相になった長州閥の軍人政治家は山県有朋を筆頭に桂太郎、寺内正毅(まさたけ)そして田中義一がいる。

 大正政変の頃、元老山県は陸軍の大御所。三たび首相に就いた桂は護憲運動に政権を追われた。寺内は朝鮮総督で自らの出番待ちだった。

 最後の田中は、政変直前の大正元(1912)年12月まで陸軍中枢の軍務局長だった。大陸発展派の急先鋒(せんぽう)として、朝鮮への2個師団増設に向けた政界工作に奔走。辛亥革命後の混乱が続く中国で列強の攻勢に対抗する軍事力が不可欠と説いた。

 増師を拒む第2次西園寺公望(きんもち)内閣を倒して田中は自らも局長職を辞す。政変後、薩摩閥で海軍の山本権兵衛(ごんべえ)首相は「陸軍横暴」の世論と政友会の数の力を支えに陸軍を抑えにかかった。対抗して田中は、交友がある大隈重信の擁立を思いつく。

 大正2(13)年7月に寺内へ書き送った構想では、桂が病で倒れる前に創設した新党の総裁に大隈を充て、国民党(犬養毅(いぬかいつよし)ら)を加えて反政友会連合を結成するのも「過渡時代の便法」としている。軍人らしからぬ政治感覚というべきか。

 田中の軍事観は幅広く、在郷軍人の組織化をいち早く提唱した。「日本のような小国が大国を相手にするには除隊後の在郷兵の指導が最も重要」と。山県、寺内の賛同を得て軍事課長時代の明治43(10)年、帝国在郷軍人会の創立にこぎ着けた。

 大正元年11月、増師問題に忙殺中の田中を「青年団の生みの親」と称される広島県沼隈郡の山本滝之助が訪ねてきた。全国組織化を進める青年団と在郷軍人会の関係について意見を交わす。田中は山本を玄関に見送りながら「その方針で内務省と文部省とに話しておけ。あとはおれが始末をつけてやる」と激励した。

 直後の護憲運動で陸軍批判が噴出した。在郷軍人会本部は、惑わされるな、と会員に呼びかけ、田中は壮大な民衆動員策を考案する。青年団を在郷軍人会に直結させることによる国民の組織化だった。

 欧米で青年教育の事情を調べ終えた大正3(14)年8月、田中の帰国第一声は「おれは青年団をやるぞ」だったという。最後の長州閥として総力戦国家の基盤づくりに乗り出そうとしていた。(山城滋)

田中義一
 1864~1929年。萩の下級藩士家出身。陸軍大卒、参謀本部付でロシア赴任。陸軍大臣、陸軍大将、昭和2年首相。張作霖爆殺事件での天皇への虚偽報告で同4年内閣総辞職。以後、陸軍で長州閥は没落した。

(2023年3月14日朝刊掲載)

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