×

社説・コラム

社説 大江健三郎さん死去 平和の願い 引き継ごう

 ノーベル賞作家の大江健三郎さんが亡くなった。文学界にとどまらず、言論界や平和運動でも影響力が大きく、戦後の日本社会を引っ張る存在だった。

 戦後を支えた知識人の訃報が最近、相次いでいる。その中心的存在だった大江さんの死去には大きな喪失感を禁じ得ない。「知の巨人」との別れが惜しまれてならない。

 とりわけ広島とは縁が深かった。1963年取材のルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」。幼少時に被爆した青年が白血病に苦しめられながらも懸命に働き、やがて死ぬ。恋人をみとった女性も静かに後を追う。生後すぐに被爆した若い母親は、わが子を産んだ直後に白血病を発症して死んでいく…。

 原爆投下から20年近くたっても死の恐怖が続く理不尽さ。それに耐え「威厳」を失わない被爆者たちを大江さんは「広島的なる人々」と呼び、励ました。

 被爆者や核兵器廃絶運動をどれだけ勇気づけたことか。核の悲惨さを被爆地が訴える「ノーモア・ヒロシマ」の取り組みを支える大きな力になったことを忘れてはなるまい。

 ヒロシマ・ノートに、大江さんはこう書き記す。「核保有国すべての指導者が広島の記憶を消したがっている」「誰が人間の悲惨の極みである広島を思い出したいものだろう」と。

 世界は核の威力ばかりに関心を向けている。核の悲惨さを被爆地が訴え続けなくては核廃絶の道は遠のく。それが大江さんの教えであり、被爆地の新聞社の使命でもあると自覚したい。

 ヒロシマ・ノートに続く「沖縄ノート」では、住民の集団自決を「軍の命令によるもの」と記述した。米軍基地を沖縄に押しつける国を批判し、「本土とは何か」を問い続けた。

 両ノートとも、国へは厳しい視線を持ち、時には激しい言葉で政権批判もした。一方で、過酷な現場で生き抜く人には温かく寄り添った。弱者との共生を訴え続けた、いかにも大江さんらしい生きざまに思える。

 大江さんは「戦後民主主義者」を自認してきた。ノーベル賞受賞時の記念講演「あいまいな日本の私」で「不戦の誓いを日本国憲法から取り外せば(略)アジアと広島、長崎の犠牲者を裏切ることになる」と述べている。

 民主主義と反戦反核への揺るぎない思いがあったからだろう。護憲への強い思いは2004年の「九条の会」結成につながった。自衛隊のイラク派遣などを背景に、評論家の加藤周一さん、作家の井上ひさしさんらとともに発起人に加わった。東京電力福島第1原発事故に衝撃を受け、晩年も原発再稼働の反対を訴え続けた。常に時代と向き合い、問い続け、行動する人だった。

 岸田政権は防衛費の国内総生産(GDP)1%枠を撤廃する動きを強めている。大江さんの死で、九条の会の発起人9人のうち作家の澤地久枝さんを除く8人が鬼籍に入った。時を経て、九条の会の精神を引き継ぐ意義は私たちにも問われている。

 5月には先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を控えている。被爆地で開催する意義は大国間の利害調整ではないだろう。核の悲惨さを世界にきちんと発信できるかどうか。それが大江さんの平和の願いを引き継ぐことにもつながる。

(2023年3月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ