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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <11> 良兵良民 青年団を在郷軍人会に直結

 帝国在郷軍人会の生みの親である田中義一は「良兵良民」を唱えた。軍隊教育で忠良なる国民をつくり出し、兵役を終えた在郷軍人は郷党の模範になるべきだ、と同会機関誌の「戦友」で説く。

 良兵良民主義の貫徹を目指して青年団の取り込みも図った。大正3(1914)年に欧米の青年教育視察を終えた田中は、同じ長州閥の大御所山県有朋の意見も聴き、軍にとってあるべき青年団の姿を打ち出す。

 団員年齢は義務教育後から徴兵検査のある20歳まで。自治団体や事業団体ではなく修養団体とし、心身錬磨と体力養成、青年の思想統一(善導)を目的とする―だった。

 20歳の年齢制限で青年団を在郷軍人会に直結させるのが眼目だった。当時は年齢制限25歳以上の青年団が多く、在郷軍人会と所属が重なれば青年団の活動が主になりがち。重複会員をなくし、修養団体として両団体を連結する狙いもあった。

 田中案の通りだと、農村社会に根を張り産業や公共事業も手がけてきた青年団活動が変質してしまう。

 青年団生みの親とされる広島県沼隈郡の山本滝之助は当初、20歳制限案に同意したが、「やはり25歳が穏当」と思い直す。大正4(15)年2月、東京での青年団体に関する協議会で修正意見を述べた。官僚で民俗学者の柳田国男が傍らでうなずいたという。

 同年9月、内務、文部大臣による青年団体指導に関する地方長官訓令が出た。ほぼ田中案通り。高田早苗文相は「田中少将が欧州視察した結果を参酌した」との談話を出す。

 訓令は、帝国議会の衆院で「青年団体を軍人の領分に入れるもの」と批判を浴びた。軍隊教育が幅を利かせば「立憲政治を去勢する」と護憲派議員は手厳しく指摘した。

 訓令後、すべて田中の思惑通りに進んだわけではない。20歳制限に従わない地域は残り、大正デモクラシーの波動を受けて自主運動を始める青年団もあった。

 ただ、大筋では青年団と在郷軍人会の連携が進む。「戦友」誌上で山本が早起きを奨励すると、田中も退営後の早起き励行などの勤倹実行を同誌上で会員に求めた。良兵良民のかけ声はやがて、国民を軍国主義体制に動員する基盤となっていく。(山城滋)

青年団の全国組織
 大正5年1月に中央報徳会青年部ができ、同年11月に独立した青年団中央部発足。山本は帝国在郷軍人会事務嘱託に就き青年団との調整に当たる。大正7年5月、青年団中央部が全国青年団連合大会を開催。

(2023年3月15日朝刊掲載)

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