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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第1部 軍都への歩み 広島城の変ぼう

幕末から数年 軍が改変

 軍都広島の歴史を語るとき、日清戦争は誰もが認める重要な画期である。しかし、都市空間の変遷という視点に立つと、軍都への最初の一歩は、既に明治の初期に、広島城の変ぼうという形で踏み出されていたのである。

 江戸時代の広島城は、内・中・外の三重の堀に囲まれた、全国屈指の大城郭であった。当時の絵図を見ると、本丸には藩主の居館であり、藩の諸役所でもあった御殿が広がっている。また内堀から外堀の間、現在の基町・八丁堀・西白島地区の大半を含む広大な土地には、大小の武家屋敷が立ち並んでいたことがわかる。このころの広島城は、藩政の中心であるとともに、武士をはじめ、下働きや出入りの商人など、多くの人々が働き暮らす、生活の場でもあった。

 時代が移り、廃藩置県直後の明治四(一八七一)年、広島城は維新政府のもと軍の管轄となる。その六年後の姿を伝える資料がある。「広島城之図」。明治十(一八七七)年、旧陸軍が作製した広島城周辺の測量図だ。

 この図を一見して気づくのは、広大な空白地帯である。既に本丸に御殿はなく、中央に鎮台司令部(後の大本営)が、その他の場所でも、兵舎とおぼしき建物など数棟がぽつぽつと認められるのみ。武家屋敷はほとんど姿を消し、かつての暮らしぶりなど、もはやかけらさえ感じられない。

 幕末からわずか数年。軍による改変は、急速かつ徹底的なものだった。新時代の大きな流れの中、広島城も、いやおうなく新たな道へと押し出された。

   その後、城内の空白はさまざまな軍の施設で埋まり、それとともに広島は日本を代表する軍都へと突き進んでゆく。しかし、その行き着く先に待つものを、知る者はいなかった。(広島市こども文化科学館学芸員・荒川正己)=第1部おわり

(2008年6月17日朝刊掲載)

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