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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <1> 「がんす横丁」の時代

市のにぎわい 東へ移動

 第二部では、「学都」という言葉に象徴される、戦前の広島が持つ「軍都」ではないもう一つの側面を見ていきたい。

 日露戦争が明治三十八(一九〇五)年に終結してから、大正時代そして昭和時代の初めごろまで、日本は国民全体を巻き込む大きな戦争から遠ざかっていた。その間に都市はインフラの整備が進み、市民の生活にも少しずつ余裕ができてきた。

 広島でもこの時代、産業・交通が大いに発達するとともに、中・高等教育学校が次々に誕生。また娯楽施設・文化施設の整備が進んだ。こうして広島は、藩政時代以来の城下町から近代的な都市へと変ぼうしていった。それを象徴する現象が、市の中心の移動である。

 かつての広島市の中心は、江戸時代から陸上交通・水上交通の要として栄えた中島地区とその周辺部だった。そのことは、明治時代に県庁と市役所がともに中島地区に置かれたことからもうかがえる。ところが、その後進められた橋や道路・港の整備、鉄道や自動車の登場によって人や物の動きは大きく変わった。

 その結果、市の重心は、中島地区よりも少しずつ東へ移動し、にぎわいの中心は紙屋町や本通り、八丁堀へと移っていった。その傾向を決定的にしたのが大正十年の新天地開業である。新天地は本通りの東、八丁堀の南に新しくつくられた盛り場である。巨大な劇場と映画館、広場を中心にたくさんの商店や飲食店、遊技場が軒を連ねて多くの人をひきつけた。

 かつて薄田(すすきだ)太郎氏が『がんす横丁』に描いた古き良き、懐かしい広島の時代である。(広島城学芸員・村上宣昭)

(2008年6月24日朝刊掲載)

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