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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <2> 初の路面電車

大正期 今の路線の骨格

 大正元(一九一二)年十一月二十三日、初めて広島の街を路面電車が走った。広島電気軌道(株)が木製二重屋根の新造車五十両を購入し、スタートした。社長は大林芳五郎氏で、大阪資本である大林組の社長だった。これより先、明治四十三(一九一〇)年六月十八日に大林氏が三十二人の発起人の代表となって、会社が設立された。

 当時の公共交通機関として、全国的に人力車と馬車鉄道が幅を利かせていた時代である。だが、広島はデルタの街ゆえに川が多く、専用橋をかけても、それを引く馬の安全が保てないので、馬車鉄道は実現していなかった(乗合馬車は一部で存在した)。このような中、広島城の外堀や川を埋めて路面電車の線路を敷設。初めて広島駅前―御幸橋西詰めのルートと、八丁堀―白島(ほぼ現在の京口門通り)のルートで開業したのである。

 その後、十二月八日には紙屋町―己斐までの区間が加わり、ほぼ現在の路線の骨格が出来上がった。ハイカラな乗り物の走っている姿を見るために、各地からわざわざ広島の街まで羽織はかまや、山高帽子にフロックコート姿の見物客がやって来た。

 このようなスタートを切った広島の路面電車で、興味深いのは線路の幅である。七百六十二ミリから新幹線と同じ千四百三十五ミリまで四種類の幅が存在したが、結局、標準軌道と呼ばれる千四百三十五ミリを選択した。このことで後に、同じ線路幅の鉄道宮島線への乗り入れが可能になった。さらにLRT(新規格の路面電車)の車両開発が有利になるなど、現在にまで好影響を及ぼしているのである。(広島市こども文化科学館長・加藤一孝)

(2008年7月1日朝刊掲載)

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