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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <3> 飛行大会

軍用地で披露し大盛況

 二十世紀に入ると人類は大空を自由に飛ぶことを手に入れた。明治三十六(一九〇三)年、アメリカのライト兄弟が動力飛行に成功すると各国は競うように技術開発を進めた。日本では明治四十三(一九一〇)年に初飛行に成功した後、軍部、民間で開発が進み、公開飛行も各地で行われた。

 国産機による日本初飛行に成功した奈良原三次(さんじ)は「鳳(おおとり)号」を製作し、全国で飛行大会を開いた。最初の開催地が広島で、大正元(一九一二)年十月だった。会場は東練兵場(現在の東区二葉の里一帯)。当時、市内で飛行機を飛ばすことができる広い場所は限定されており、軍用地が使われたのである。新聞には、三万人を超える人が集まる中、数回の波状飛行が行われ、大盛況だったと書かれている。

 これを手始めに、広島の空でさまざまな飛行機が披露された。特にアメリカの飛行家アート・スミスが知られている。彼は大正五(一九一六)年に来日し、全国で飛行大会を行った。広島では五月二十九、三十日、会場は西練兵場だった。それまでの飛行大会は旋回や波状飛行といった単調なものだったが、スミスは横回転、宙返り、錐揉(きりも)みなどのアクロバティックな要素をふんだんに取り入れた。この飛行に観客は酔いしれた。

 これに触発され、日本人で初めて宙返り飛行を成功させたのが広島市京橋町出身の山縣豊太郎である。彼は広島で「鳳号」に乗せてもらい、魅せられて飛行家となった。大正八(一九一九)年「伊藤式鶴羽号」に乗り込み、千葉県の津田沼飛行場上空でこの偉業を披露した。

 大きな戦争に突入するまでのひと時、多くの飛行家たちが大空を駆けていた時代のことである。(広島城学芸員・山脇一幸)

(2008年7月8日朝刊掲載)

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