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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <5> 学都の形成

高師設置で学生集まる

 「軍都」とともに「学都」とも称された広島だが、学問の都としての発展は必ずしも順調なものではなかった。戦前の各地域を代表する総合大学として内地に七校設立された帝国大学は、広島にはついに設置されなかった。また、帝国大学へ進学するエリートを養成する旧制高等学校の設置では、山口に先を越され、岡山とも第六高等学校の誘致を争って敗れている。

 広島が学都として飛躍するきっかけとなったのは、東京に次ぐ第二高等師範学校として、明治三十五(一九〇二)年に広島高等師範学校(広島大学の前身の一つ)が設置されたことである。

 小学校の教員を養成する尋常師範学校に対し、高等師範学校は旧制中学校の教員を養成する学校である。卒業後教職に就くことを前提に授業料がいらず、しかも全寮制で生活が保障されていたことから、経済的な理由で高等学校・帝国大学への進学をあきらめざるをえない優秀な人材を多く吸収した。

 また、のちに一般選抜試験に切り替えられるが、大正十(一九二一)年までは道府県ごとに一定の人数を割り当て、推薦制によって生徒を募集していた。これにより全国から優秀な生徒が集まり、卒業生は全国の学校へと巣立っていった。広島高等師範学校はとりわけ西日本の中等教育界において、圧倒的な勢力を誇ったのである。

 高等師範学校の設置は、付属小・中学校の設立をはじめとして広島市民の文化活動にも大きな影響を与えた。そして、戦前の広島は物価も安く、学生を大切にする街として定評があったという。「学都広島」は全国から集まった学生たちと、それを温かく迎えた広島市民が協力してつくり上げたものなのである。(広島城学芸員・村上宣昭)

(2008年7月29日朝刊掲載)

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