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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <6> スポーツ王国の誕生

独捕虜とサッカー交流

 広島のスポーツは、学校教育とともに歩み始める。近代スポーツの中で、最初に人気を博したのが野球である。

 明治五(一八七二)年に米国から伝わった野球は、広島では明治二十年代に広島尋常中学(後に広島中学・広島一中、現広島国泰寺高校)を中心に広がった。三十年代以降は各校に野球部が創設され、対外試合が盛んに行われる。

 やがて、夏の甲子園大会の前身「全国中等学校優勝野球大会」の開催に伴い、広島野球は隆盛を見せる。大正四(一九一五)年に始まったこの大会の開幕戦で広島中学が登場。大会初本塁打を放ったが、7対14で敗れた。その後、広島商業や広陵中学(現広陵高校)などが台頭し、両校とも大正時代に全国優勝を成し遂げていく。

 一方、陸上や水泳、テニス、バレーボールなども、学校教育を通して大正時代に本格的に広まった。日本初のオリンピック金メダリスト、三段跳びの織田幹雄(広島中学出身)に代表される多くの優秀なアスリートが広島から生まれる。

 サッカーも明治時代末ごろから広島高等師範(広島大学の前身の一つ)を中心に始まり、指導者が中等学校に赴任するに及び大正時代、広島全体のレベルが上がった。最も強豪だった広島中学のユニホーム「広島フットボール(HF)」は当時の栄光を物語る。広島中学のOBで構成された鯉城蹴球(しゅうきゅう)団も、二年連続で全国制覇を成し遂げる。

 広島のサッカーが強かった理由はほかにもある。広島高等師範などの強豪校は、第一次大戦で似島に収容されていたドイツ人捕虜と、大正八(一九一九)年にサッカー交流を行い、最先端の技術を身につけた。広島のサッカーはこうした伝統抜きには語れない。(広島城学芸員・玉置和弘)

(2008年8月5日朝刊掲載)

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