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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <7> 気象台

江波山へ移転 交渉難航

 広島の気象台の歴史は古い。明治十二(一八七九)年、水主町(現在の中区加古町)にあった県庁内に、県立の測候所としては全国で初めて設置された。わが国の気象業務が正式に始まってから四年後のことである。

 明治二十五(一八九二)年に国泰寺村(現在の中区千田町)に庁舎を移した。日清戦争時の明治二十七(一八九四)年から翌年にかけては、天気図を大本営へ毎日届けた。広島測候所での天気図作成は、皮肉にも戦争によって始まったのである。

 昭和九(一九三四)年には、江波山(中区江波南)に鉄筋コンクリートの立派な庁舎が完成した。移転理由の一つは、測候所前を路面電車が通るため地震観測に支障が出たことである。

 実は、測候所の移転先をめぐる交渉は難航した。中央気象台(現在の気象庁)は気象観測に適した江波山に移したかったが、県側は江波山が公園なので譲りたくなかった。そんなとき、中央気象台から派遣された担当者が宴席で見せた踊りのうまさに魅せられた県知事が折れ、めでたく江波山への移転が決まったという。

 昭和十四(一九三九)年には国営となり、十八(一九四三)年には広島地方気象台と名称も変わった。第二次大戦中には、江波山にあった陸軍の高射砲隊が庁舎に同居した。気象台が観測した上空の気象データは、高射砲隊に提供され、敵機攻撃に使われた。山の上に立つクリーム色の庁舎は敵機から目立たないよう、黒いペンキで迷彩を施された。

 昭和二十(一九四五)年には原爆により被災。同年九月の枕崎台風なども経験した気象台は、昭和六十二(一九八七)年に合同庁舎(中区上八丁堀)へ移転。現在は中国地方の気象業務の要となっている。(広島市江波山気象館学芸員・脇阪伯史)

(2008年8月12日朝刊掲載)

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