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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 松本大典 福島原発処理水

港の誇り 失いかねない

 親潮と黒潮が交わり、プランクトンが集まる福島県沖は、豊かな漁場で知られる。水揚げされた魚は、東京の築地市場で「常磐もの」と呼ばれ、一目置かれていた。12年前の東京電力福島第1原発の事故で危機にひんし、復興の途上にある。その流れに、まさに水を差す行為だ。政府と東電が春から夏ごろ、原発そばの海で処理水の放出に踏み切ろうとしている。

 原子炉建屋に流れ込み放射能で汚染された地下水や雨水から、放射性物質を取り除く多核種除去設備(ALPS)で浄化した水である。ただし、分離できない物質がある。トリチウムだ。国は安全基準の40分の1未満に薄め、科学的に問題ないとしているが、影響を懸念する地元漁業者の不安はいかばかりか。

 今月上旬、第1原発から約7キロの浪江町の請戸漁港を訪ねた。15メートルを超える津波で壊滅的な被害を受けた港は、きれいに生まれ変わっていた。100隻以上あった漁船は30隻弱に。被災後、南相馬市の漁港を間借りして漁を続け、船着き場が整った2017年に戻ってきたという。

 競りは活気に満ちていた。常磐ものの代表格のヒラメが市場いっぱいに並ぶ。原発事故後に漁が制限され、相当増えたらしい。座布団ほどの大物も目立つ。詳しく話を聞こうとしたら「見物のみ」と断られた。船着き場で声をかけた漁師も「マスコミには話さない」と素っ気ない。

 この反応は、織り込み済みだった。関係者の取材が難しくなっていると事前に聞いていたからだ。処理水の放出について個々の考えには濃淡がある。ばらばらに語って足並みが乱れるのを恐れているのだろう。

 福島県は「日本全体の問題だ」と賛否を明確にせず、関係者への丁寧な説明や情報発信を国に求めている。全国漁業協同組合連合会(全漁連)や福島県漁連は反対を貫く。放出開始の判断を前に、現場で物言わぬ空気が広がっているとしたら残念だ。

 漁師が駄目ならと、漁港近くで水産卸売・加工業を営む柴栄水産に立ち寄った。柴強社長(56)は「これまでの苦労が無になる」と、処理水放出に憤りを隠さない。周辺海域では原発事故後、試験操業を続けてきた。厳しい規制値を設け、他地域よりむしろ安全と自負を込める。本格操業に徐々に移行し水揚げ量は上向きに。事故前の2割にまで落ちたヒラメの価格は全国平均を上回るようになった。それでも築地で高値を付けたかつての水準には程遠い。

 柴栄水産も津波で流された事業所を再建し、20年に営業を再開した。新型コロナウイルス禍に耐え、これからという時だ。「処理水を海に流せば風評被害は必ず起きる」。ブランド復興へ歯を食いしばる漁港の人たちの偽らざる思いだろう。

 政府や東電は、風評被害が起きれば賠償するという。しかし、漁業関係者の意欲や誇りは失われかねない。そもそも処理水を巡っては15年に「関係者の理解なしには処分しない」と漁業者に約束していた。にもかかわらず、海洋放出に向けた準備は着々と進む。

 請戸漁港を訪ねた前日、第1原発に入った。12年前の水素爆発で鉄骨がむき出しになったままの原子炉建屋を望む高台から海面に目を移すと、1キロ沖に4本のくいが見える。「あの下に放出口があります」。東電社員の説明はよどみない。処理水を排出する海底トンネルはあと1、2カ月で貫通し、5月中にスタンバイが整うと言い切る。

 敷地内には処理水のタンク千基が並び、秋には容量を超えるという。漁業関係者の了解がないまま、なし崩し的に放出が始まるのだろうか。原発を見学した夜、近くの町の居酒屋で、常磐もののメヒカリの唐揚げをいただいた。ふっくらとした白身の上品な味が忘れられない。

(2023年3月16日朝刊掲載)

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