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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <12> 第1次世界大戦 新権益求め「外に帝国主義」

 護憲運動が呼び覚ました政治参加の機運を吹き飛ばしたのは戦争だった。大正3(1914)年7月に第1次世界大戦が欧州で勃発し、発足間もない第2次大隈重信内閣は日英同盟を根拠に参戦を決める。

 日清戦争後の三国干渉を経て、ドイツが中国から租借した山東半島の膠州(こうしゅう)湾一帯の明け渡しを日本政府は求めた。返答はなく、同年8月23日にドイツに宣戦布告した。

 広島で護憲運動を主導してきた芸備日日新聞は宣戦布告の4日前、「時節到来!!!」との社説を掲げた。膠州湾からドイツを駆逐する我が国発展の時節到来は、(三国干渉で)屈辱の恨みに泣いた国民の心を躍らせて痛快である―と。

 日露戦争で得た南満州(現中国東北部)に続く新権益を求めてやまない好戦的な論調は「内に立憲主義、外に帝国主義」を地で行っていた。競合紙の中国新聞の社説も「雪辱の機は来(きた)れり」と似通った論旨だった。

 出兵基地のみならず兵站(へいたん)全般を担う軍都広島は開戦景気に沸く。当時の記事に「近時、宇品が瀕死(ひんし)の境より甦(よみがえ)り」とある。戦地に赴く前に六字名号(南無阿弥陀仏)下付を出願する軍人が多く、本願寺広島別院は宇品に臨時出張所を設けた。

 一方、大日本商工協会の広島、福山両支部は営業税廃止運動の中止を決めた。「時局に鑑み挙国一致の実を挙げる」との本部方針に賛同。護憲運動で勢いづいた政府にもの申す行為を商工業者は自ら封じた。

 日本軍は山東半島のドイツ軍を降伏させた。日本政府は大正4(15)年1月、対華21カ条要求を中国に突きつける。山東半島の新権益や南満州権益の期限延長など(第1~4号)に中国全土での日本の勢力拡大策(第5号)も加えた。

 中国の袁世凱(えんせいがい)政権は属国扱いに近い屈辱的要求に抗議して交渉は停滞。日本国内では対外強硬派が弱腰外交と政府を批判し、世論は沸騰した。列強監視の中で同年5月9日、中国は第5号を除く要求を受諾する。この日を国恥記念日とした中国で反日感情が極度に高まった。

 日本国内は大戦特需で広島県でも造船などの産業が勃興した。満州放棄策は議論の機を失い、「外に帝国主義」の時代が続く。(山城滋)

対華21カ条要求
 加藤高明外務大臣が主導。南満州関係は旅順・大連の租借期限と南満州鉄道・安奉鉄道の期限を99カ年間延長など。第5号は中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人招へい、必要な地方警察の日中共同化など。

(2023年3月16日朝刊掲載)

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