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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <10> 羽田別荘少女歌劇団

大劇場で地元発の舞台

 広島でラジオ放送が始まったのは昭和三(一九二八)年七月、同じくテレビの放送開始は戦後の昭和三十一(一九五六)年三月である。ということで、ラジオもテレビもなかった大正時代の広島市民にとって、最大の娯楽といえば、やはり映画と演劇であった。

 映画はまだサイレントの時代だったが、大正時代の初めごろから専門の上映館が次々に建てられ、隆盛へと向かっていった。

 一方、演劇も映画に押されつつあったとはいえ、江戸時代以来の伝統的な歌舞伎に加えて、新派や新劇、新国劇といった新しい演劇活動も登場して人気を博していた。

 江戸時代には広島城下での芝居興行や劇場の建設は禁止されていたのだが、明治以降は、いくつも劇場が建てられた。中でも最大の規模を誇ったのが大正十(一九二一)年に新天地の中心的な施設として誕生した、収容人員三千人ともいわれる新天座である。

 こうした劇場で上演される出し物は東京や上方方面から来演する興行が多かったが、地元広島発のステージもあった。特筆されるのは、羽田別荘少女歌劇団(羽田歌劇団)である。

 羽田歌劇団は中区舟入町に今もある料亭「羽田別荘」の経営者、羽田謙次郎によって結成された。初演は大正七(一九一八)年十二月。団員は料亭で働く芸妓(げいぎ)や近郊の若い女性から選ばれ、多いときには五十人を超えたという。

 歌や踊りの指導者は帝劇や宝塚から招かれ、舞台衣装もほとんどが東京や大阪で仕立てた本格的なものだった。あえて誤解されそうな「ハダカゲキ」をうたい文句に、東京、大阪から台湾、旧満州(中国東北部)まで公演に出向いた。残念ながら、太平洋戦争が始まる直前の昭和十六(一九四一)年秋、静かにその幕を閉じている。(広島城学芸員・村上宣昭)

(2008年9月2日朝刊掲載)

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