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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第2部 もう一つの姿 <11> 山陽記念館

顕彰の動きを受け建設

 戦前の広島で文化施設といえば山陽記念館がある。建設の契機は昭和四(一九二九)年、有志による頼山陽先生遺蹟顕彰会の設立にさかのぼる。会では没後百年祭や記念館建設、伝記資料の刊行などが計画された。県が事業への寄付を募ると、二十七万円(現在の約二億円)も集まった。

 昭和六(一九三一)年十月十六日、顕彰会主催で頼山陽百年祭が実施された。西練兵場で神道形式の式典、県立第一中学校で徳富蘇峰の講演などがあり、開局三年目の日本放送協会広島放送局により、ラジオ中継された。また、遺品遺墨展覧会が県立商品陳列所で開かれ、翌年には「頼山陽全書」が完成した。

 そのような動きを受け、記念館が袋町の山陽居室のそばに建設された。設計佐藤功一、施工藤田一郎で、昭和十(一九三五)年十二月に完工、翌年二月十一日から一般開放された。

 和洋折衷の建築様式の本館は、鉄筋コンクリート二階建ての瓦ぶき。一階に遺物陳列室や図書室など、二階に講堂や講師室が設けられ、講堂は各種団体が利用できた。部屋には温水ラジエーターの暖房器を設置し、トイレは水洗だった。隣接する和風建物の「附属家」では出版物、肖像画、絵はがきの販売をした。

 昭和十二(一九三七)年九月―翌年六月の月平均入館者は千五百七十人、講堂の使用は二十三回とにぎわいを見せた。また、記念館を拠点に漢詩の機関誌「嶺松盧(れいしょうろ)」や雑誌「鑑古(かんこ)」が発行された。

 記念館の建設は、山陽の実像とは異なる「尊王の大家」の顕彰という翼賛体制的な企図と無縁ではない。しかし、その経緯や活動を見る限り、郷土の文化を見直し、発展させたいという市民の思いもあった。

 山陽記念館は原爆にも耐えたが、老朽化が進み、現在は頼山陽史跡資料館として建て替えられている。(広島市文化財団文化財課学芸員・田村規充)=第2部おわり

(2008年9月9日朝刊掲載)

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