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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第3部 戦時下の街で <1> はじめに

脅かされた市民の生活

 広島は日清戦争以降、戦争のたびに陸軍の軍都としての色彩を強めた。軍事・軍需施設が拡大され、昭和二十(一九四五)年四月には本土決戦に備え、第二総軍司令部も二葉の里(東区)に設置された。第三部では、昭和六(一九三一)年の満州事変から、戦争への道を余儀なくされた広島について見ていきたい。

 長期化する戦争は、平穏な市民生活を徐々に脅かしていった。召集により父や兄弟の多くが戦場に送り出され、武運長久の祈りを込めた千人針の協力を求める光景が街頭で見られるようになった。

 衣服も太平洋戦争が始まる昭和十六(一九四一)年になると、広島でも街頭で羽織姿を見かけることはまれになっていった。戦争末期には国防色という軍服の色が目立ち、男性の国民服は戦闘帽・巻脚絆(まききゃはん)、女性はもんぺ姿が大半を占めるようになった。

 大学生も学徒出陣で戦場に赴き、中学生、女学生も授業を打ち切り軍需工場に動員された。金属回収といって銅像や釣り鐘、家庭の門扉、格子なども供出し、兵器工場へ運ばれた。

 米、砂糖、しょうゆ、マッチ、衣料といった生活必需品の不足で米穀通帳や衣料切符などによる配給制度がとられ、広島では昭和十五(一九四〇)年、米の需給を円滑にするため通帳制度が実施された。

 昭和十七(一九四二)年の初空襲以来、防空体制が強化された。川の街広島では、川を泳いで避難することを想定して、浮袋や竹製の浮きも配られ、川には筏(いかだ)も用意された。しかし、東京・大阪などのB29による猛爆に市民の不安は募り、昭和二十年三月には広島市の学童集団疎開が始まった。家族離散となり人々は戦局の行く末を案じたが、原爆により一瞬にして広島は壊滅し廃虚と化した。(広島市郷土資料館学芸員・山縣紀子)

(2008年9月23日朝刊掲載)

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