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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第3部 戦時下の街で <5> 被爆した電車

63両の位置 今も不明確

 一九四五(昭和二十)年八月六日の原爆投下時、広島市内を走っていた路面電車は六十三両だった。広島電鉄の資料によると、保有車両は全部で百二十三両。残りは千田、己斐の二カ所の車庫や、県病院前にあった丹那引き込み線(通称桜土手引き込み線)、それに中心部から少し離れた江波終点(当時)付近にそれぞれ留置されていた。

 問題は、営業していた六十三両の詳しい位置が、今でもはっきりしていないことだ。被爆後の混乱した中で関係者の方が、どの車両がどこで被爆したのか調べて回られた。その結果は資料に残されている。しかし、被爆直後の写真や、終戦後米軍が撮影した写真などをみると、紙屋町交差点では記載のない200形電車が写っているなど、電車の状況と資料とで異なる部分がいくつかある。

 100形と呼ばれた木造の電車は、台車だけを残して焼失した。この電車の残骸(ざんがい)は道端のがれきの中に埋もれていることがある。近年、被爆直後の写真の中から新たに四両ほど100形電車の残骸を確認することができた。しかし、前述の資料とはさらに矛盾する事実もあり、今後継続して調査する必要を感じる。

 驚くのは、復興の勢いが予想以上だったことだ。たとえば、今でも被爆電車として走っている651号は、現在の中国電力本社(中区小町)付近で被爆し脱線した。米軍が撮影した八月八日の航空写真には写っている。それにもかかわらず、十一日の写真には写っていない。十一日以前に、車庫に運ばれて行ったと推測できる。

 人手も満足に確保できず、けが人も大勢いる混乱した中で、電車を車庫まで速やかに移送した事実には驚く。これはほんの一例だが、被爆当時の状況を知れば知るほど、人々の使命感や復興に対するエネルギーに思いを深くする。(広島市こども文化科学館館長・加藤一孝)

(2008年10月28日朝刊掲載)

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