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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <13> アジア主義 日本が盟主 大陸発展志向へ

 中国・上海の孫中山(そんちゅうざん)故居紀念館は、「中国革命の父」と呼ばれる孫文が晩年を送った洋館である。滞日中の仮名「中山」を号にしたほど孫文は日本との関わりが深い。

 孫文にとって日本は、革命成就のための支援を得る策源地であり、欧米列強に追随して中国権益を分け合う警戒すべき国でもあった。

 日清戦争後に蜂起に失敗して日本へ亡命した孫文は明治30(1897)年、犬養毅(いぬかいつよし)と面会した。犬養は当時、大隈重信外務大臣の参謀格の有力政治家。将来の中国を動かす人材と孫文を見込み、資金を提供するルートをつくった。

 面会を仲介した宮崎滔天(とうてん)は自由民権の素地から国外に目を転じ、大陸浪人として中国の革命運動に加わった。フィリピンの独立運動も支援するアジア主義者だった。

 アジア主義とは、欧米列強の侵略にアジア諸国が連帯して対抗しようという主張。日露戦争に勝って「日本が盟主」との意識が強まり、膨張主義の隠れみのにもなった。

 明治44(1911)年10月に辛亥革命が勃発し、犬養は玄洋社創設者で右翼巨頭の頭山(とうやま)満と上海に赴く。共和制を採る革命派と日本に亡命中で立憲君主制志向の康有為(こうゆうい)らとの提携を画策したが失敗に終わる。

 革命派は北京の袁世凱(えんせいがい)と結んだ。袁は翌年3月、孫文に代わって中華民国臨時大総統に就く。皇帝宣統帝は退位して清は滅んだ。

 中国革命には日本の大陸浪人たちがさまざまに関わった。その一部は陸軍参謀本部と組んで革命派に武器支援を行う。中国が分裂、弱体化すれば満州(現東北部)を手に入れやすくなるとの発想。アジア主義は大陸発展論へすり替わっていた。

 大正元(12)年末から護憲運動を率いた犬養も「外に帝国主義」だった。対華21カ条要求を交渉手順以外はほぼ支持した。大正12(23)年、第2次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の逓信大臣に就任すると孫文から手紙が届いた。

 その中で孫文は、列強追随で北京政府を支持する日本の対中外交を批判した。そして「日本がアジア支援を志し、ヨーロッパ的帝国主義の尻馬に乗るのをやめればアジア民族はみな敬慕・尊崇する」と記す。犬養は返事を出さなかった。(山城滋)

孫文
 1866~1925年。広東省出身。ハワイで革命結社を組織、広州蜂起に失敗して日本へ。辛亥革命で帰国し1912年1月に中華民国臨時大総統。その後、袁世凱や後継の北京政府に対抗し南部を拠点に国民党を率いた。

(2023年3月17日朝刊掲載)

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