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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 白血病の死者 <1> 原爆の子

 78年前に米軍が広島、長崎に投下した原爆は戦後、放射線の影響で白血病の増加を引き起こした。被爆10年ごろにかけてピークを迎え、1955年に亡くなった佐々木禎子さんの発病と回復を願って折った鶴がよく知られている。広島市での先進7カ国首脳会議(G7サミット)が2カ月後に迫る中、同様に白血病に命を絶たれた被爆者を手記や証言でたどり、戦後の平和な日常までも奪った核兵器の非人道性を考える。(編集委員・水川恭輔)

復興と平和願った17歳

 原爆投下から6年後の1951年10月に刊行され、今も読み継がれている手記集「原爆の子」。収められている105編のうち、10歳での被爆体験をつづった伊藤久人さんの手記は広島の復興への期待に満ちている。書いた当時、広島市内の山陽高2年生だった。

 「広島市民によって、いや日本全国民によって、もっと大きく言って世界の人々の手によって、広島の町は見事に復活していきます」。その後、広島は期待通りにますます活気を取り戻した。だが、伊藤さんは白血病に襲われ、17歳の若さで命を絶たれた。

被爆時 母が救出

 被爆前、伊藤さんは阿多田島(現大竹市)で、灯台の台長を務める父と母、弟と生活。45年8月5日、下宿して広島市内の学校に通う兄稜夫(いづお)さん=当時(14)=に会うために母登(のぼる)さん=同(38)=と生後8カ月の弟雅人さんとともに市内に泊まった。翌朝、伊藤さんが旅館の玄関で猫と遊んでいると、閃光(せんこう)が差し込んだ。

 爆心地から約800メートル。崩れた建物の下敷きになった伊藤さんを、母が火のついた木や板を取り除いて助け出した。「その時の私の嬉(うれ)しかったことは今でも忘れることはできません」(手記)。しかし、弟は助からず、建物疎開作業に動員されていた兄も犠牲になった。

 さらに、母も島に戻った後に体調を崩し、8月26日に亡くなった。伊藤さんも頭髪が抜け、だるさを感じた。症状に効くと聞いたおきゅうを据え、やがて体調を取り戻していった。

 戦後、父が再婚して市内の第6管区海上保安本部勤務となり、伊藤さんは近くの官舎で家族3人で暮らした。山陽高2年になった51年、父は再就職で大阪に移ったが、伊藤さんは「広島に残りたい」と下宿をして通学。手記は、この年に広島大教授だった故長田新さんの呼び掛けに応じて書き、現況は「幸福に暮らしています」とつづった。

 だが、しばらくして体調が悪くなり、市内の病院に入院。父母が看病に駆けつけると、伊藤さんは涙を見せた。その後、51年12月に息を引き取った。「原爆の子」刊行の2カ月後。「おきゅうをしてください」―。亡くなる前、かすかな声で漏らしたという。

後輩 足跡たどる

 早過ぎる伊藤さんの死は長田さんの手記や、戦時中の灯台に着目して伊藤さん一家を追った本紙連載「灯光はるか」(95年)が伝えている。ただ関連資料は少ない。「原爆の子」は手記の筆者の学校名を載せていないだけに、母校山陽高でも伊藤さんの存在はあまり知られてこなかった。

 それでも今年に入り、図書部の生徒6人がその短い生涯を調べている。昨年、平和学習で被爆体験の証言をしてくれた西岡誠吾さん(91)=廿日市市=から伊藤さんのことを教わったのがきっかけだ。西岡さんは、兄の稜夫さんの親友だった。

 「伊藤さんのように学校に戻れなかった先輩がいたとは、想像したこともなかった」。図書部の2年佐々木慧士さん(17)は、白血病の増加をはじめ原爆放射線による被爆者の健康被害を調べ始めた。部員仲間は阿多田島を訪ね、被爆当時の足取りをたどっている。

 佐々木さんたちを駆り立てるのは、伊藤さんが手記に書き残した願いだ。「原子爆弾を戦争というものに使わないで」「世界各国の人々が平和な笑いに満ちあふれるようにして下さい」…。調べをまとめ、原爆の日の前に校内で発表する。

(2023年3月20日朝刊掲載)

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