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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 森本啓稔さん―多くの同級生ら犠牲に

森本啓稔(もりもとひろとし)さん(90)=広島市中区

「生き残ってすまんのう」自分責め続け

 森本啓稔(ひろとし)さんは13歳(さい)だった78年前の8月6日朝、現在は原爆資料館(広島市中区)や広島国際会議場がある辺りに同級生と一緒(いっしょ)にいるはずでした。たまたま予定を変えたため命は助かりましたが、200人近い同級生が原爆の犠牲(ぎせい)になりました。戦後は「自分だけ生き残って申(もう)し訳(わけ)ない」と思い続けてきました。

 当時は広島市立造船工業学校(現市立広島商業高)の1年生。戦争で授業はほとんどなく、材木町(現中区)で家を取り壊(こわ)す建物疎開(そかい)作業に動員されていました。

 自宅(じたく)は幟(のぼり)町(同)にあり、両親と弟の4人家族でした。しかし父は召集(しょうしゅう)されて横浜(よこはま)に、国民学校5年生の弟は縁故(えんこ)疎開で西条町(現東広島市)にいました。家には森本さん、母ヨシ子さんのほか、家が建物疎開の対象になり強制退去になった伯父(おじ)と、その息子で5歳ぐらいの「オッチャン」たち親戚5人が暮らしていました。オッチャンは明るくて元気な子でした。

 このころ、森本さんたちも西高屋村(同)に疎開する準備を進めていました。8月5日夕、急きょトラックを借りることになり、ヨシ子さんと荷物を運びました。それまでは建物疎開作業に欠かさず参加していましたが、この日は衣類を干(ほ)す手伝いのため西高屋に泊(と)まり、翌日(よくじつ)の作業を休むことにしました。

 6日朝、米軍が投下した原爆は広島市の上空約600メートルでさく裂しました。約40キロも離(はな)れていましたが、森本さんの視界(しかい)は「世の中が真っ白になったよう」。8日に広島に戻(もど)ると焼け野原になっていました。爆心地から約1・2キロの自宅も全焼。隣(となり)の家に住んでいたたばこ好きのおばあさんと思われる頭蓋骨(ずがいこつ)が、焼けたきせると一緒に転がっていました。

 焼け跡(あと)に立ちつくしていると、伯父が現れて泣き出しました。オッチャンが倒(たお)れた家の下敷(したじ)きになり、炎(ほのお)に襲(おそ)われたと言うのです。落ちてきたはりを動かせず、泣き叫(さけ)ぶわが子の足をさすることしかできなかった、と。それ以来、伯父はいつもオッチャンの骨(こつ)つぼを首から下げていました。

 友達も亡(な)くなりました。広島原爆戦災誌(し)によると、爆心地から約500メートルで作業していた同級生194人と教員5人の全員が即死(そくし)。生き残ったのは森本さんを含(ふく)め数人だけでした。「大やけどを負って、どんなに苦しんだことでしょう。言葉になりません」

 翌年(よくねん)から体の不調を感じ始めました。広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)で診察(しんさつ)を受けると胃潰瘍(いかいよう)とポリープが見つかり、医師に「原爆症(しょう)」と告げられました。物資が乏(とぼ)しい時代で全身麻酔(ますい)はなく、痛(いた)みにうめきながら開腹(かいふく)手術を2回受けました。「放射線を浴びた不安は一生付きまとう」。酒店などを経営しながら、健康維持(いじ)を心掛(が)けて生きてきました。

 亡くなった同級生たちの遺族(いぞく)に合わせる顔がない、と自分を責(せ)めながら、毎年8月6日に母校の慰霊(いれい)祭に参加してきました。今もよく慰霊碑(ひ)に立ち寄ります。背(せ)が高かった子、厳(きび)しかった先生…。碑に刻まれた名前をなぞりながら思い出します。「私だけ生き残ってすまんのう」

 数年前から時折、地元の学校で被爆体験を証言しています。でも、あの日見た光景を詳(くわ)しく話すことはできません。「子どもたちに大きなショックを与(あた)えてしまうかも」。それでも「世界から核兵器がなくならない限り、人間は同じことを繰(く)り返すかもしれない」との思いも募(つの)ります。「核の恐(おそ)ろしさを私たちの体験から知ってほしい」と願っています。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

生存者の心もむしばむ

 森本さんは生き残って幸運だと思ったのではなく、むしろそのことに罪悪感を募(つの)らせていました。亡(な)くなった同級生にわびていたという話から、原爆は生存(せいぞん)者の心もむしばむのだと知りました。つらい過去を乗り越(こ)え、懸命(けんめい)に証言を語る森本さんの強さを見習い、私(わたし)も自分にできることを考えて行動していきたいです。(高3佐田よつ葉)

思いを受け止め未来へ

 被爆直後について、電柱が焼けてタケノコのような姿(すがた)で並んでいたことや、知り合いの女性の頭蓋骨(ずがいこつ)が転がっていたことなどを教えてくれました。私(わたし)たちにつらい過去を語ってくださったのは、二度とあの日を繰(く)り返さないためです。被爆者の思いを本気で受け止め、平和な未来をつくる決意を持たなければならないと思います。(高1田口詩乃)

 森本さんは「起こる前から行動することが大切」と話していました。戦争が再び始まってしまう前に、戦争の悲惨さや史実を伝えることが大切だと思いました。戦争を体験したことがない私たちは、想像することしかできません。しかし、多くの人から話を聞くことで、知識を蓄え、継承することができると思います。

 私はこれから進学する大学で「若者への歴史の継承方法」について研究したいと考えています。そして、二度と戦争が起こらない世の中になる手助けをしたいです。(高3桂一葉)

 森本さんが被爆体験を話すようになったのは、この1、2年だそうです。それまで、自身の体験を「言いたくなくて仕方なかった」と暗い顔で振り返る様子が印象的でした。心にも体にも傷を負った経験を思い出して言葉にするのは、胸をえぐられるぐらい、つらいことだと思います。それでも「もう二度と繰り返さないために」と証言をしてくださる被爆者の思いを受け止め、自分にできる行動を続けていきたいです。(高3岡島由奈)

 森本さんは母校の慰霊碑に立ち寄るたびに「わしだけ生き残ってすまんのう」と声をかけるそうです。私はとてもすてきな仲間に囲まれて学校生活を送っているので、「自分だけ生き残って同級生がほとんど亡くなる」と想像しただけで、とてもつらくなりました。

 被爆証言ができる方が少なくなる中、森本さんは「小学生に残酷な話をするのは難しい」と考え、詳しい証言をためらうそうです。たとえ残酷でも、本当のことを知るのは大切なことです。しかし、子どもたちが「原爆の話は怖いからもう聞きたくない」と思ってしまう可能性もあります。どのようにして被爆の実態を多くの人に伝えていくか、模索する必要があると感じました。(中3藤原花凛)

 当時の中学生たちはあの日、いつもと変わらない生活の中で被爆死しました。森本さんは母校の慰霊祭で「同級生の親の顔を見ることができなかった」そうです。その中で何十年も生きてきた森本さんのつらさを感じました。

 森本さんは間違ったことを言わないようにしたり、伝える相手の精神状態に気を使ったりしながら証言され、誠実な方だと感じました。森本さんが話すように、5月に被爆地で開かれるG7サミットが「意味のあるもの」になってほしいです。そのためにも、より多くの被爆者の言葉を発信していきたいと思います。(中3小林由縁)

 森本さんが何度も「自分だけ生き残って申し訳ない」と話していたことが印象的でした。もし私も突然友達が亡くなったら、自分だけ生き残ったことに対する罪悪感を抱くと思います。

 戦争だけでなく、自然災害や事故、病気でも大切な人が突然亡くなることがあります。人と過ごす時間を大切に、命の尊さを感じながら過ごしたいです。4月から中学3年生になり、友達と過ごす時間も残り短いため、一日一日を大切に過ごそうと思います。(中2山下裕子)

   森本さんは入学早々、校庭で麦を刈り、サツマイモの苗を植えるといった、今では考えられない日々を送っていました。戦後は放射線の影響に不安を感じたり、自分だけが生き残ったという罪悪感を感じたりしながら、苦労を重ねてきました。「広島で起こったことを知ってほしい」と話していました。

 日常に感謝して、戦前と戦後の様子についてたくさんの人に知ってもらいたいと思いました。(中1佐藤那帆)

(2023年3月20日朝刊掲載)

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