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[ヒロシマの空白 証しを残す] 「無限の瞳」台本が現存 被爆後 白血病で亡くなった高校生の映画

折り鶴活動のきっかけ

 広島で被爆してから10年後、白血病のため18歳で亡くなった東京の高校生を記録した映画「無限の瞳」(1955年)の撮影当時のシナリオが残っていた。同作品は、原爆の放射線の影響で急増した白血病に苦しむ若い被爆者の存在を全国に伝え、広島に千羽鶴を送る活動にもつながった。広島市での先進7カ国首脳会議(G7サミット)まで19日であと2カ月。平和を願う被爆地のシンボルとなった折り鶴のいきさつに関わる貴重な資料だ。

 映画で取り上げられているのは、広島市で被爆した後、東京都に転居していた千葉亮(まこと)さんで、成城高(東京都新宿区)3年だった54年秋に被爆の影響とみられる白血病で入院した。救援の輪を広げようと同校生徒会が映画を製作。闘病生活や生徒の募金活動、製作中の55年5月に死去した千葉さんの学校葬などを約20分で伝えている。

 シナリオは、当時生徒会で製作に携わった古手(こて)英三さん(85)=東京都=が保管。「第二、第三の君を出す」などと原水爆使用の反対を訴えたせりふが刻まれている。映画は成城高が動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開しており、古手さんはより広く知ってもらおうと原爆資料館(広島市中区)に資料を寄贈する。

 映画は、55年8月に広島市で初めて開かれた原水爆禁止世界大会の関連行事で上映。新聞や雑誌でも紹介され、若者に被爆者救援のための活動が広がった。

 名古屋市の愛知淑徳高の生徒は55年夏、千葉さんと同じく白血病を発症した被爆者へのお見舞いとして広島市の広島赤十字病院に千羽鶴を送った。白血病で入院中だった佐々木禎子さんも受け取り、それをきっかけに折り鶴を折り始めた。

 禎子さんは同年10月に12歳で亡くなり、平和記念公園(同)に58年に建立された「原爆の子の像」のモデルになった。回復を願って折られた鶴は、広島サミット(5月19~21日)に出席する各国首脳が訪問する方向で日本政府が調整を進める原爆資料館の代表的な資料になっている。(編集委員・水川恭輔)

(2023年3月19日朝刊掲載)

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