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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <14> 大争議 呉海軍工廠 職工の不満爆発

 「市中は一時、ただならぬ殺気が動いて三万余の職工は野に山に、さては劇場に集合した」「『同盟罷工(ひこう)に加盟せざる者は打ち殺す』と電柱にはそんな貼(はり)紙が見えた」―。

 明治45(1912)年の呉海軍工廠(こうしょう)の大争議に加わった作家の宮地嘉六は、自伝的小説「騒擾(そうじょう)後」でストライキを回想した。

 兵器製造部門の第1工場で3月29日、主任の大技士による侮蔑的暴言への怒りが引き金になりストライキは起きた。賃金や職工共済会処分への不満が渦巻いており、労組なきストは同部門の大半の工場に広がる。

 4月2日に最高潮に達し1万2千人が参加したストは5日にほぼ終息した。多数の憲兵や警察官が来援し、復業せねば首謀者は重刑と布告される。「官憲の威嚇に度肝を抜かれて、一も二も言わずその翌日から復業した」と宮地は記した。

 千人余が取り調べられ、三十数人が治安警察法違反で起訴された。首謀者として拘置され、8月に広島監獄を出た25人の中に宮地もいた。職工たちが得たのは大技士の転出のみ。造船部門はストに加わらなかった。

 争議の背景は複合的だが、加給全廃や残業急減による生活苦の不安があった。自分たちの拠金で設けた共済会病院の行方も海軍共済組合の新設で揺れていた。当時、2万3千人の巨大工廠ゆえ上下の意思疎通は難しく、疑問や不満がくすぶる。

 工廠当局はストの前、官物持ち出し予防のため一般職工の青服(作業着)へのポケット付けを厳禁した。上役による鉄拳制裁もあった。腕に誇りを持つ職工たちは、解雇を恐れて屈辱に耐えた。しかし、「馬鹿」の語を53回連発したという大技士の暴言には耐えきれなかった。

 中国新聞は4月1日、同盟罷業の続報で「大技士の謝罪を求める職工側に対し、工廠長は原因不明として大技士をかばうのはどうしたことか」と工廠当局を批判した。

 宮地は呉の新聞社にしばらく勤めた後に上京した。官憲の取り調べを経て復業した同僚たちのその後を「かえって従来よりも熱心に従順に作業に服するようになった」と小説に書く。「そして同盟罷工ということは、今後雇い主以上に彼等(ら)には禁物となった」とも。(山城滋)

宮地嘉六
 1884~1958年。現佐賀市に生まれ、12歳から海軍の佐世保造船廠、呉造兵廠、工廠で旋盤職工。大正2年に上京後、堺利彦の売文社で働く。職工体験を基に「煤煙(ばいえん)の臭ひ」など労働小説を次々発表した。

(2023年3月18日朝刊掲載)

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