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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 白血病の死者 <3> ある米国人医師

わが子重ね新薬を提供

 米国のテキサス医療センターは、今の広島市南区にあった原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の関係資料をいくつも所蔵している。その中で、米国人医師ウィリアム・モロニーさん(1998年に90歳で死去)の日記は、論文などに表れない広島での体験や感情がうかがい知れる。52~54年に内科部長などを務め、専門は白血病など血液学だった。

 日記を読み進めると、53年9月20日付本紙夕刊記事が貼ってあった。記事が取り上げているのは、8歳で白血病と診断された宮本雅一さん。記事の下には「とてもかわいい子だった」などと英文のメモがある。

被爆者の批判

 ABCCは、米軍の原爆投下の2年後、米大統領令に基づき原爆放射線の人体影響を調べるために市内に開設。被爆者から「調査すれども治療せず」と批判された。ただ、モロニーさんは地元医師の雅一さんの治療に協力し、本紙は同記事で「原爆症少年に米人医師の愛情」と見出しを付け報じた。

 「雅一君は、顔の耳の辺りにやけどの跡がはっきりと残っていました」。雅一さんの2歳年上のいとこ菅雅則さん(80)=南区=は白血病の発症前から被爆で痛々しい傷を負っていた姿が脳裏に刻まれている。

 45年8月6日、生後10カ月の雅一さんは母敏子さん=当時(23)=と爆心地から約1キロの市役所近くにいた時、乗っていた乳母車ごと爆風で吹き飛ばされた。母は雅一さんの泣き声で気を取り戻し、辺りが猛火に包まれる中を翠町(現南区)の家まで連れ帰った。全身にやけどを負っていた母は3日後に息絶えた。

 父は軍務に服して家を離れており、雅一さんは市内で母方の祖父故松井節次さんに育てられた。父の復員後も愛情は変わらなかった。菅さんは「原爆に奪われた大切な娘が残した孫。駅前に肉を食べさせに行くなど、とにかくかわいがっていました」と振り返る。

「個人の関心」

 だが、皆実小(現南区)3年生だった53年9月、ABCCで検査を受けると異常な白血球の増加と赤血球の激減が判明。急性リンパ性白血病だと診断された。モロニーさんは、日記に当時のことを記している。

 「とても魅力的な笑顔でトミーのようでした」。雅一さんの無邪気な姿が息子に重なったが、「やけどがひどく、顔は傷だらけだった(略)母親は原爆で殺された」。白血病を示す検査資料を見ると泣きそうになったという。そして「病気を打ち負かす知識を少しでも加えられれば」とも。

 この後、モロニーさんは研究用に持っていた市販前の海外の新薬を地元の医師に提供。組織の方針ではなく「個人の関心」(日記)と説明した。

 新薬の使用などで異常な白血球は減り、赤血球は回復。ただ、それも一時的で雅一さんは54年2月に入院先の県立広島病院で亡くなった。輸血を「もうええ」と拒んだのが最後だったという。まだ9歳だった。

 雅一さんは、松井さんが「原爆母子之墓」と刻んで建てた墓に母とともに葬られた。モロニーさんは雅一さんの死去からまもなく離任し、米国の大学で白血病治療などの研究を続けた。

 モロニーさんの個人的な新薬提供でABCCへの被爆者の不信が拭えたわけではなく、その後も本格的な治療体制を整えることはなかった。ただ、当時の日記には、わが子に重なる少年の命が危機にひんするのを前に、核使用の悲惨さを突き付けられた医師の葛藤が深く刻まれている。「人間の苦しみや哀れみに、どんな国際的な境界線があるのでしょうか」(日記)

(2023年3月22日朝刊掲載)

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