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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅵ <15> 労働運動 繰り返される労組への弾圧

 呉海軍工廠(こうしょう)で働く職工は日露戦争期に3万人を超え、その後も2万人前後が続く。作業着の色から青服とも呼ばれ、小説家の宮地嘉六は青服に憧れて旋盤職工になった。

 日本一の兵器製造所に全国から集った彼らは技能に磨きをかけ、危険な重労働に耐えた。職階が異なる上役からの差別的処遇も我慢するが、積もった不満が時に暴発した。

 前身の呉造船廠時代の明治35(1902)年、新任廠長の厳罰主義に反発して約5千人が3日間のストライキを決行した。廠長は転任になる。日露決戦を前に巡洋艦完成を急がねばならぬ特殊事情もあった。

 明治39(06)年には加給制度廃止に反対したストライキで19人が検挙された。そして明治45(12)年の大争議。職工の要求を束ねて当局と交渉する労組はなく、感情を爆発させただけの勝算なき闘いだった。

 「結合は勢力なり」と片山潜たちが呼びかけて明治30(1897)年に初の労組鉄工組合が結成される。明治32(99)年に同組合の呉支部ができ、造船廠や造兵廠の職工50人が加わった。しかし、翌年の治安警察法制定で労働運動は尻すぼみに。

 街頭型の護憲運動を経た大正4(1915)年、穏健派の友愛会呉分会が結成され翌年に支部になる。会員500人に発展するが、争議頻発で友愛会が労使協調路線から脱皮し始めると、弾圧が始まった。

 海軍省の指令により呉海軍工廠は大正7(18)年、友愛会を脱会しないと昇給停止にすると伝えた。警察当局が会員を個々に訪れて脱会を強制し、会は翌年末に消えた。

 一方で同年の米騒動を機に労組結成は上げ潮になる。呉でも大正8(19)年に呉労働組合が工廠労働者ら2600人余で発足。穏健路線を自称したが、工廠側は難癖をつけて幹部を解雇し、同労組も消滅した。

 ただ、時代は変わる。明治45年争議後に宮地が頼った大阪の親方のように規則が厳しい工廠から民間への転出者も出てくる。第1次世界大戦時の好況で職工争奪は激化した。

 列強に学び自前で巨大戦艦が建造できるまでになった呉海軍工廠も募集難に陥る。労組の芽を摘むだけの労務対策の限界だった。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅵおわり

友愛会
 クリスチャンの鈴木文治らが大正元年に組織し、当初は共済、修養色が強かった。第1次世界大戦下で急増する争議に関わって労働組合の性格を強め、同8年に大日本労働総同盟友愛会、同10年に日本労働総同盟に発展。

(2023年3月21日朝刊掲載)

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