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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説副主幹 山中和久 サミット会場の元宇品

要塞化された歴史忘れず

 5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の主会場、グランドプリンスホテル広島のある広島市南区元宇品町は瀬戸内海国立公園に指定されている。週末には、貴重な自然林の森や砂浜の残る海岸線などを散策する人が行き交う。

 広島湾に突き出した地形の元宇品は筆者が学生時代、多くの時間を過ごした地である。西側の海岸に艇庫があった広島大ヨット部に所属していた。久しぶりに訪ねたいと思ったところ、折よく先月下旬、元宇品の歴史を歩いて学ぶイベント「地球さんぽ」があり、参加した。

 市民有志でつくる「アース・ミュージアム元宇品自然観察ガイドの会」が毎月1回開いている。サミットで注目を集めるせいか、事務局の予想を超す75人の参加があった。

 住宅の密集する東側を巡り、森を縫う周回道路に入る。その脇に太平洋戦争中、陸軍が築いた高射砲陣地跡がひっそりとたたずんでいた。台座の一部が残る。合宿時のランニングコースだったが、走るのに精いっぱいで気にも留めていなかった。

 大きなクスノキが何本も切られ、木造兵舎を含め関連施設は30近くあったらしい。その間を行き来した軍道の名残も見つけられる。

 約2時間の行程だった。歩き終えて戦争と元宇品の関わりをもっと知りたくなり、同会メンバーで地元の歴史を研究する坂谷晃さん(63)に連絡した。坂谷さんは1941年の太平洋戦争開戦を機に「元宇品の要塞(ようさい)化が進んだ。至る所が立ち入り禁止だった」と説明してくれた。話を聞きながら、背後の宇品を守る「砦(とりで)」をイメージした。

 元宇品は橋でつながった宇品島である。約130年前まで広島湾にぽっかり浮かび、市沿岸部との間に遠浅の海が広がっていた。宇品港(現広島港)の築港に向けた干拓用の堤防道路で陸続きになった。堤防には後に水路が開かれ暁橋になった。

 当時の宇品港を一望する高台にある鈴木幸子さん(93)方を訪ねた。鈴木さんは子どもの頃、陸軍桟橋から沖に停泊する輸送船へ、兵隊を艀(はしけ)に乗せて送り出す様子を見ながら「日の丸を振っていた」と振り返る。

 宇品港は完成から5年後、1894年の日清戦争を機に軍用港としての利用が始まる。終戦まで半世紀、干拓で生まれた宇品地区は大陸や南方へ兵隊を送り出す出兵基地、物資を供給する兵站(へいたん)基地となった。指揮する陸軍運輸部(後の船舶司令部)が今の南区宇品海岸に置かれ、配下の部隊は「暁部隊」と呼ばれた。

 石組みの陸軍桟橋は宇品波止場公園の岸壁に一部が残る。ここからどれだけの人が戦地に送られ、殺し合いをし、命を散らしたのだろうか。

 鈴木さんの父は元宇品に創業した宇品造船所の初代社長で、3歳の時に亡くなった。兄姉も病気で早世。母娘だけとなった家は船舶司令部幹部の宿舎に使われた。身の回りの世話をする当番兵も一緒で、2人は台所での生活を余儀なくされた。

 先輩記者からは元宇品西側に大きな地下壕(ごう)があったと聞いた。入り口があった場所に行ってみたが既にふさがれている。「本土決戦」が叫ばれた時期、元宇品での陸軍の動向について資料は残っていない。当時の軍施設を市刊行の「広島原爆戦災誌」に当たったが、元宇品には高射砲陣地に関する記載しかなかった。

 被爆関連資料を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授(76)は、原爆体験記などから「大本営陸軍第二通信隊通信所」と確認したという。元住民が記した書の「大本営直轄部隊が常駐していた」との記述と合致するが、詳細は不明だ。

 約30年前、内部を調査した「広島の強制連行を調査する会」によると格子状に掘られ、部屋のようなスペースもあった。調査に参加した同会の正木峯夫さん(76)=広島県熊野町=に尋ねると「明らかに軍施設」と語り、続けた。「岸田文雄首相には、サミット会場のホテルの眼下が大陸侵略の最前線だったと各国首脳に説明する気がないだろう」と。

 爆心地の南約5キロに位置する元宇品は、原爆の爆風で家屋の9割は窓が壊れたり、屋根瓦が吹き上げられたりしたが、広島原爆戦災誌によると無傷の人が多かったという。

 サミットを控え、元宇品にも警察官の姿が目立ちはじめた。元警察官の坂谷さんは2000年の九州・沖縄サミットに警備応援で派遣された経験を持つ。祖父は原爆投下直後、甚大な被害を免れた暁部隊の一員として救援活動に当たり、被爆者を金輪島へ運ぶ任務に当たった。

 坂谷さんは「生まれ育った元宇品でサミットが開催されるのは誇らしい」と言う。ロシアのウクライナ侵攻が続く中で「いまだ分からないことが多い元宇品の戦争の歴史にも、光が当たるといい」と言葉をつないだ。

(2023年3月23日朝刊掲載)

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