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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第3部 戦時下の街で <8> 原爆と枕崎台風

土石流、京大調査班のむ

 広島市中心部から西へ車で約一時間。廿日市市の宮浜温泉街の一角に、四つの平たい三角形を組み合わせた「京大原爆災害調査班遭難記念碑」が静かにたたずんでいる。この地で何が起こったのだろうか。

 原爆投下から間もない昭和二十(一九四五)年九月十七日。復興ままならない広島を枕崎台風が襲った。気象台は台風接近の情報を得て気象特報を発表した。しかし、情報を伝える手段が復旧しておらず、ほとんどの人々は猛台風接近を知らなかった。

 この台風により、主に広島市周辺や呉市で大規模な土石流が発生し、広島県全体で二千人以上の死者を出す大惨事となった。

 土石流の被害者に、京都帝国大(現京都大)原爆災害総合研究調査班が含まれていた。彼らは中国軍管区指令軍医部からの調査依頼で、原爆被害の調査を行っていた。

 調査班は当初医学の専門家で構成。前述の記念碑に隣接する場所にあった大野陸軍病院に本拠を置き、九月三日から原爆被災者の診療を開始した。さらに十六日からは物理学の専門家も合流した。

 ところが、九月十七日夜十時三十分ごろ、大野陸軍病院の中央部を山からの土石流が襲い、入院中の被災者のほとんど全員と研究調査班員十一人、計百五十六人が亡くなった。これにより、調査班はその活動を停止せざるを得なかった。

 この土石流の原因には、九月初旬から梅雨時季のように雨が降り続いていたうえ、台風による短時間での豪雨がある。さらに、もともと花こう岩が風化しもろい地質の山だったこと、戦時中に不足したガソリンの代用として生産された、松根油(しょうこんゆ)の原料となる松が掘り起こされ山が著しく荒れていたことが挙げられる。

 昭和二十年は広島にとって最悪の年となった。(広島市江波山気象館学芸員・遠藤正智)=第3部おわり

(2008年12月2日朝刊掲載)

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