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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第4部 復興の足音 <3> カープ誕生

鯉に込めた飛翔の願い

 「チーム名は鯉(カープ)」。一九四九(昭和二四)年九月二十八日の中国新聞で、初めて「広島カープ」の名称が公になった。広島出身の政治家谷川昇氏によって名付けられたが、その由来は約四割の人にしか知られていない(広島城調査)。カープの名称に込められた本当の意味は、球団誕生の背景からひも解くことができる。

 広島は戦前から野球が盛んで、当時のプロ野球界にも広島出身者が数多く在籍していた。一面の焼け野原からの復興の過程でも、早くから野球が興じられた。占領軍との親善試合、プロ野球を目指す鯉城園などの社会人チームの存在、また四八(昭和二十三)年に行われたプロ野球の試合に二万五千人もの人が集まるなど、戦前の野球熱はそのまま引き継がれていた。

 四九年には平和記念都市建設法が施行された。これにより復興が急ピッチで進み、広島人は徐々に生活の糧を得ることはできていた。だが、原爆や戦争による心の傷の回復までは至っていなかった。広島の野球熱と復興のつち音、そして満たされない心。プロ野球の二リーグ構想はこうした時期に提唱され、大企業が新球団設立の動きを進めていく。

 こうした中で「敗戦によって打ちひしがれた青少年に夢を与え」、健全な娯楽を提供する点から、広島に球団を作ることに奔走する人物がいた。谷川氏である。彼は「広島城が鯉城と呼ばれていたこと、そして出世魚でもあること」などから「カープ」と名付けた。そこには広島の歴史的名称「鯉城」と、広島の未来へ飛翔(ひしょう)する「鯉」の二重の意味が込められていた。

 被爆都市の復興の証しとして生まれた市民待望の球団。大企業のバックアップがなかったため、解散の危機を迎えたこともあったが、広島人の熱狂的応援により街の復興とともに歩んだ。(広島城学芸員・玉置和弘)

(2008年12月23日朝刊掲載)

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