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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第4部 復興の足音 <4> 競技大会・博覧会

予算不足の中 市民一丸

 昭和二十年代中ごろになると、スポーツや文化のイベントが開催される。旧西練兵場では昭和二十四(一九四九)年八月、広島で開かれた戦後初の全国競技大会「マッカーサー元帥杯競技大会」で、庭球と卓球の大会が開かれた。翌年秋には児童文化会館付近でこども博覧会があり、各種施設や乗り物のほか、タイからのゾウ「広子さん」が人気を集めた。

 昭和二十六(一九五一)年夏―秋には、第六回国民体育大会(国体)が広島市を中心に行われた。並行して道路や施設も整備され、県営競技場(当時)を主会場に、競技の多くは学校のグラウンドを使った。また、同年三―六月には広島城周辺で国体協賛の体育文化博覧会が開催された。二代目天守閣が仮設で再建され、さまざまな催しも人気を呼び、ゾウの広子さんも再びやって来た。

 こうしたイベントは、平和の回復を象徴する出来事ではあったが、広島が都市基盤を整える前であり、予算も不足し、時期尚早の感が否めなかった。例えば、マッカーサー杯の卓球会場は、旧海軍の建物を移築したものだった。国体では食料や宿泊施設が不足し、二代目天守閣の復元は完全ではなかった。

 しかし、関係者はスポーツや文化を通じて早急に復興を成し遂げようという強い信念を持ち合わせていた。一万三千人もの選手が参加した国体は市民一丸となった取り組みで成功し、広島が復興の過程を着実に歩んでいることを対外的に示すこともできた。カープ誕生の物語とあわせ、スポーツや文化面から復興に携わった人々の意気込みは、過小評価してはならない。

 その後、街はさらに復興の勢いが増し、昭和三十年代前半には中心部に県庁、市民球場、広島城天守閣などが造られていく。それは国体から四年余り後のことで、時代の歩みもテンポを速めていた。(広島城学芸員・玉置和弘)

(2009年1月6日朝刊掲載)

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