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連載・特集

廣島 広島 ひろしま 第4部 復興の足音 <5> 市民球場

ドーム照らした新風景

 昨年九月二十八日、プロ野球公式戦の最終試合を迎えた広島市民球場が、大いに盛り上がったことは記憶に新しい。しかしもう一つ、「市民球場の終わり」という意味で心に残しておきたい試合がある。前日の最後のナイターである。

 広島カープが一九四九(昭和二十四)年の誕生早々、経営危機に見舞われ、「樽(たる)募金」などで支えられていたことは広く知られている。経営を安定させるため、入場者数を増やす切り札として期待されたのが、当初本拠としていた広島総合球場(現県総合グランド野球場)に代わる新球場の建設だった。特に、当時すでに主流となっていたナイターの設備を持つことは球団、ファンともに悲願だった。

 新球場は当たり前のように「ナイター球場」と呼ばれた。一九五七(昭和三十二)年七月十五日に行われた点灯試験には五千人もの市民が詰め掛け、日本一とまで言われた明るさを実感した。二十四日の初の公式戦(対阪神)もナイターで行われた。市民球場の歴史はナイター球場としてつづられ始めた。

 この年の平和記念式典で渡辺忠雄広島市長は、四九年の広島平和記念都市建設法制定以来のめざましい復興の状況を、「新しい広島市は生まれつつある」と平和宣言に表した。市長の胸の中には、半月前の竣工(しゅんこう)式の日、自ら点灯スイッチを入れた市民球場の姿があったのではないか。そして市民にはドームの背後にそそり立つ照明塔が「新しい」風景として記憶されたに違いない。とすれば、六基の照明塔の灯が、市民球場を復興のシンボルとする装置として重要な意味を持つ。

 最後のナイターが終わり、大歓声とともにカクテル光線がドームの背後を照らす日はもう来ない。復興の視点から見た広島の歴史に一つの区切りが訪れたのかもしれない。(広島市郷土資料館学芸員・大室謙二)

(2009年1月20日朝刊掲載)

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